原爆製造にも使われていた「テフロン」開発した科学者は36年前に初来日した際、何を語ったのか
戦争のたびに成長した化学企業
この2年前に刊行された『デュポン経営史』(小沢勝之)によれば、デュポン社は1802年にアメリカで火薬製造会社として創業し、南北戦争をへて、総合化学メーカーへと脱皮する。平時には、防湿性に優れた「セロファン」や丈夫な合成繊維「ナイロン」などを生み出し、第一次世界大戦や第二次世界大戦など、戦争によって業績を伸ばしてきた。 <第二次大戦では、弾薬供給のほかに、パラシュートなど大量の戦需品を納入し、また政府の「マンハッタン・ディストリクト」(原子爆弾製造計画の暗号名)に参画して世界最初の核兵器製造に成功するなど、デュポン社が第二次世界大戦で得た利益総額は7億4千万ドル、じつに第一次世界大戦の3倍以上にも達したのである> 戦争のたびに潤い成長する化学企業は、いつしか「死の商人」と呼ばれるようになる。 同書によると、挙国一致体制が敷かれるなか、デュポンには1942年、秘密の新兵器用の原料を大量に生産するための工場の建設・運営が依頼される。このとき、デュポンは二つの条件を示したという。 「この計画に対して特許権を取得することはしない」 「手数料は年額1ドル」 デュポンが損得を無視した「愛国者」の態度を示したのは、成長が見込まれる原子力産業にいち早く関わることで技術上の機密やノウハウを手にすることができると踏んだからではないか、と記されている。
原爆に使われるプルトニウム製造に不可欠だった物質
西海岸のワシントン州ハンフォードに、プルトニウムの製造工場を建設したデュポン。しかし第二次世界大戦における同社の貢献は、それだけではなかった。前出の『毒の水』には、次のように記されている。 <プルトニウム製造過程で使われた腐食性の高い化学物質はパッキンやシールを腐食させたが、テフロンだけがびくともしなかった。 戦時中、デュポンのテフロン製品は全て政府の使用に割り当てられていた。そのほとんどはマンハッタン計画に使われた。デュポンのプルトニウムが「ファットマン」原子爆弾として長崎上空で炸裂した頃、デュポンはすでに平時操業計画を練っていた> そのなかには、PFAS汚染の震源地ともいえるウェストバージニア州の工場計画もあったという。 ここで、プランケット博士が見つけたテフロンが安定的に製造できるようになったのは戦後のことだ。大規模生産を可能にしたのが、当時まだ知られていなかったPFOAだった。 その後、その用途は焦げつきにくいフライパンの加工をはじめ、「台所から宇宙まで」と言われるほどに広がった。同時に、深刻な汚染を撒き散らすことになる。 プランケット博士が清水工場を訪れた1988年時点で、デュポン社はすでに、社内の研究所の動物実験から、PFOAが深刻な健康被害を引き起こすことがわかっていた。その危険性が公にされるのは2000年以降になってからだった。 プランケット博士はどのように認識していたのだろう。40分ほどに編集された清水工場訪問の記録映像のなかで、伝説の「ミスター・テフロン」が魔法の物質がもたらす影について言及する場面はなかった。 プランケット博士が訪れた清水工場で何が行われていたのか。スローニュースでは工場内の機密文書を入手、詳しく伝えている。 筆者:諸永裕司(もろなが・ゆうじ) スローニュースで『諸永裕司のPFASウオッチ』を毎週連載中。(https://slownews.com/m/mf238c15a2f9e) ご意見・情報提供はこちらまで pfas.moro2022@gmail.com
諸永裕司