じつは、徳川慶喜は1868年に「大失策」を犯していた…明治人が見た「幕末・維新」の意外な実態
明治の政治運動家
日本という国は、どのような国なのか。この国の根幹にはなにがあるのか。 政治や社会の混乱を目の当たりにするとき、私たちはふとこうした大きな疑問を抱いてしまうことがあります。 【写真】徳川慶喜の「意外な軍服姿」 そうした問いについて考えるのに、重要なヒントをくれるのが、『隠れたる事実 明治裏面史』という本です。 著者は、講談師の伊藤痴遊。 伊藤は1867年に横浜で生まれ、明治初期に政治運動(加波山事件など)に関わり、何度か投獄された経験を持ちます。 当時、政治思想を広めるための手法として講談が注目を浴びており、そうした背景のなかで伊藤も講談に関心を持ちました。1890年代から講談師として活動し、この活動から派生するかたちで、幕末、維新期の政治史をたどる著作を刊行するのです。 『明治裏面史』は、そんな伊藤が、明治政治史の関係者から材料を得つつ著した作品です。本書には「同時代」あるいは「ちょっと前のこと」としての幕末や維新期の政治が、生き生きと描き出されます。 現代の研究の水準からすると、やや外れた見解もあるかもしれませんが、当時の政治活動家がどのように政治の動きを見ていたのかという事実は、知識として非常に重要なものとなるでしょう。 たとえば、徳川慶喜が政権を朝廷に返上したあと、一つの大きな失敗をしたと、伊藤は述べていますが、その記述はたいへんに興味深いものです。同書より引用します(一部、読みやすさのために改行など編集しています)。 〈慶喜が政権を返上したのは、慶應三年の十月十四日[一八六七年十一月九日]であるが、そこまで落ち着くあいだに、佐幕勤王両派の暗闘は、じつに凄まじいほどのありさまであった。 あるときは、佐幕派の勢強く、勤王派はほとんど閉息するのほかなきに至ったこともある。またあるときは、佐幕派が勢力を失うて、いまにも幕府の潰れそうになったこともある。 その暗闘がいくたびか繰り返されているうちに、時勢は急転直下の勢いで、ようやく佐幕派に不利となり、ついに慶喜が政権を返上することになったのである。 〔中略〕 よし、慶喜が政権を返上しても、なお二条城に頑張っていて、あくまでも討幕派と対抗していたら、まさかに慶喜を京都から逐い出すこともできず、討幕派はどれほどくり死んだか知れぬ。 それをどういう都合があってか、慶喜は大坂城へ引き揚げてしまったのであるから、もうそうなってはふたたび入京しようとしても、討幕派が朝命を利用して、慶喜の入京を拒むには定(きま)っているのだ。もっとも政権返上のことが決すると同時に、朝廷からは徳川がいままで所領としていた、関八州の地をことごとく返納しろという内命が下った。〉 〈これに対して争論は存外に激しかったので、ついには慶喜は疳癪まぎれに、大坂へ引き揚げたのであろうが、それがそもそも幕府の大失策であったのだ。 もしこのときに、あくまでも二条城に尻を据えてこの一問題について争論を続けたならば、薩長の二藩になにほどの策士がおっても、徳川をいかんともすることはできなかったに違いない。慶喜は二条城に頑張って、大坂城には三万の大兵がある、それで「サア来い」と睨んでいたら、西郷[隆盛]、木戸[孝允]、大久保[利通]の三傑がいかに焦ったところで、結局は実力の争いになるのだから、慶喜を逐い出すことはできなかったろうと思う。 しかるに慶喜は、みずから大坂城へ退いてしまったから、領地返納の談判が激しくなり、だんだん朝廷のご沙汰が面倒になってきたので、慶喜は終(つい)に兵を率いて入京しようとした。そこで薩長二藩が主となり、朝命を威光(かさ)に入京を拒んだのである。ここにおいて慶喜は、兵力によって入京しようとする、その争いが例の伏見鳥羽の戦闘(たたかい)になったのだ。〉 大阪に引っ込むか、京都にとどまるか、そんなちょっとした違いで、その後の歴史が大きく変わったかもしれない……伊藤の記述は、興味深い視点を授けてくれます。
群像編集部(雑誌編集部)