同級生が描いた漫画にまっすぐ目を見て「つまらないね」…「それで完全に嫌われてしまって」漫画家・榎屋克優がトガりまくっていた20歳のころ
2024ニッポンの成人#5《前編》
18歳のころ、「ヤングジャンプ月例MANGAグランプリ」にて、『サラリーマンの死』が準優秀賞を受賞し、22歳で『日々ロック』で連載デビューした漫画家・榎屋克優氏。中学校の卒業文集にも記した「漫画家になる」という夢を叶えるために、必死にもがいていた20歳のころの話を聞いた。 【漫画を読む】トガりまくっていた大学時代に着想していた『日々ロック』
高校時代の放送部で「流行りのJ-POPを流せ」に対して流した音楽は…
――成人の日なので、「18歳~20歳くらいのころ」の話を聞きたいんですが、そこにいたるまでのお話からうかがえればと思います。まずは、子どものころのお話から教えてください。 榎屋克優(以下、同) 父が体育教師で母親が保健室の先生という、体育会系一家の中で育ちました。なんとなく、髪も伸ばしちゃいけない雰囲気がある感じで。 ――失礼ながら、現在の榎屋先生とはかなり雰囲気が違いますね。 (笑)。ずっとスポーツ刈りだったので、初めて前髪ができたのも19歳とかそれくらいです。大学で一人暮らしをはじめて、ちょっと反動もあったかもしれません。いまだに親は、スポーツ刈りが一番似合うのにって訳のわからないことを言ってます(笑)。 ――当時、熱中していたことはありますか? 父親が野球部の監督だったので「野球をやるもんだ」みたいな空気があって、僕も中学まではやっていました。うまくはなかったし、チームも弱かったし、熱中はしてないですけどね。父親が顧問をしているチームと練習試合をしたときは、26対0で負けました(笑)。 ――お父さまから、熱血指導はなかったのでしょうか。 ありましたよ。リビングで素振りして、バッティングフォームをみられたり。嫌だなーと思いながらやってましたね(笑)。野球は最後まで好きになりませんでした。ボール怖いし、やること多いし、みたいな。 ――中学で野球を辞めて、高校生では部活に入らず? いえ、放送部に入りました。校内ラジオのDJみたいなことをしてて。 ――どんな曲を流していたのでしょうか。 ブルーハーツとか奥田民生とか、ストーンズとか。僕は月曜日の担当だったんですが、その日は好きなロックばっかり流してました。 ――ほかの学生からの評判はどうでした? あんまりよくなかったですね(笑)。やっぱり、当時流行りのJ-POPを流せとかそんな声のほうが多くて。でも、金曜担当のやつはアニソンばっかり流すので、そいつよりは人気があったと思います(笑)。でも、誰に何を言われてもアニソンを貫いてたのはかっこよかったですね。あの姿勢はロックでした。