「東大はキリスト教の敵である!」――東大に敵意を燃やして、自分で大学まで設立した偉人の名前
「キリスト教の敵」としての東大
新島は、東大を頂点に形成されつつある学校体系を、立ち向かうべき主要敵と見なしていた形跡がある。たしかに新島は東大を大学の手本として持ち上げた。それは、一般の日本人に対して支援を呼びかける時であった。一方、外国教会や日本人キリスト者など、同じ宗旨の仲間の前ではまったく違う東大論を語っている。それは、キリスト教の敵としての東大であった。 1885年、滞米中の新島は、同志社の学校への援助を求めるアピール文を起草し、発表した。その中で、同校の当時の様子を次のように報告している。 「この学校は五年間の英学教育と、さらに三年間の神学教育を行っている……学校は完全にキリスト教の基盤の上にたてられており、今ではヤソの学校として人々から公然と認められている。学校は国中の各地から多くの若者を惹きつける中心となった。たいていの者は未信者のままで学校にくる。学校を出ていく前に、若干の例外はあるが、ほぼすべての者がクリスチャンになっているのである」。 未信者の状態で同志社に集まってくる若者の多くが、学校を出る頃には信者になっている。ごく初期の例だと、同志社英学校が開校して2年目の1876年に入学した徳富蘇峰は、すぐに新島から洗礼を受けている。蘇峰の場合はすでに郷里の熊本でキリスト教に接していたが、入学後に教師や仲間の感化で受洗した者も多かっただろう。そのことはもちろん、新島の大きな喜びだったに違いない。彼らはこの国に福音を広める重要な役割を果たすはずである。 ところが、先行きは明るいものではなかった。せっかく入信した若者がやがてキリスト教から離れる現象が見られたからである。大きな原因は、同志社に神学以外の高等教育課程が存在していないことにあると新島は考えた。 同志社で学ぶ生徒は、在学中はキリストに心を向ける。しかし、彼らがさらに高度な教育を求めた場合、同志社にはそれがないので別の学校に進むことになる。キリストを信じる共同体から離れた若者は、容易に棄教の道に入り込む。新島が憂慮するのはこのことである。 そして、より高度な教育を求める同志社出身者が目指す学校とは、つまるところ東大であった。 日本最高レベルの教育を受けようと思えば、この翌年に帝国大学に改組される東京大学に入学することになる。しかし、東大は国家の大学であり、キリスト教を排除しているので、せっかく同志社で入信した若者の信仰心を奪う装置になりうる。