宮家繁栄と皇統護持は利益背反の関係にある 社会学的皇室ウォッチング! /110 成城大教授・森暢平
◇これでいいのか「旧宮家養子案」―第12弾― 宮家は皇統護持のためにある――。そう語られることが多い。だが歴史を仔細にみるとき、この命題は必ずしも当てはまらない。たとえば天皇家は、断絶した宮家に皇子を養子に入れることで宮家の新陳代謝を促し、血統として天皇に近い宮家を創出しようとした。ところが、宮家側ではこれを拒否し、独自の家の維持に固執する場合があった。今回は18世紀の伏見宮家の継承を例に、宮家繁栄が皇統護持の目的から相反する面があることをみていきたい。(一部敬称略) 1759(宝暦9)年6月、伏見宮家の第16代当主、邦忠が27歳で亡くなった。彼には子がなく、弟宮として寛宝(かんぽう)(25)、尊真(そうしん)(15)の2人の親王がいた。ともに得度して僧籍に入り、寛宝は勧修寺(かじゅうじ)、尊真は青蓮院(しょうれんいん)の門跡であった。仏門にある皇族が還俗(げんぞく)する例は幕末以降に頻出する。しかし、還俗は本来、戒律を守れない者への処分であり、この時代、宮家の還俗相続は例がなかった。 前例はむしろ天皇の皇子による相続であった。1692(元禄5)年に八条宮(常磐井宮(ときわいのみや))家が断絶したが、その4年後、霊元天皇の皇子文仁をもって宮家を復活させるなど多くの例が存在する。ただ、1759年の伏見宮家の「断絶」の際には、天皇家の側にも問題があった。当時の桃園天皇(18)には、後継ぎたる男子が英仁(ひでひと)(生後10カ月、のち後桃園天皇)しかいなかったのである。 そこで伏見宮家は、由緒のある家柄につき、血脈が続く者に相続させたいと願い出た。具体的には寛宝による継承を望んだのである。一方、天皇家側は、桃園天皇に第二皇子ができるのを待ち、伏見宮家を相続させたいと考えた。「還俗は五摂家においてすら稀(まれ)で容易ではない」と宮家の血脈による継承に反対した。ここに、伏見宮家と天皇家が対立する構図が生まれる。