「顔や頭じゃ勝負にならない」小堺一機、飛び石の上を渡り続けた芸能人生の原点
期せずして開いた芸能界への扉
「落ち着きがない子どもでしたけれども、映画館に連れていくと騒いだりしなかったらしいんですよ。『黒いオルフェ』みたいな大人向けの難解な作品を見にいったときも、母親が飽きて帰ろうとしたら、“まだ終わってないでしょ!”って、最後まで僕が見ているから、母親は“この子は天才かもしれない”と思ったみたいです(笑)」 小学2年のとき、一家は浅草に転居した。寿司職人の父がおにぎり屋を営む家から、六区の映画街は目と鼻の先。父の商売の邪魔にならないように、小堺は学校から帰ると映画館に入り浸った。 「もぎりのお姉さんに顔を覚えられて、行けばタダで入れてくれたんです。たまにおじさんがもぎりをやっているときは、“父親が中にいるんですけど、急用ができたので捜しに来ました”って嘘ついて、1本見てから“すみません、他の映画館だったみたいです”って出てきた。それでも別に怒られませんでしたから、いい時代でしたよね」 2年後、父の仕事の都合で目白へ引っ越すことになる。転校初日、母は言った。 「最初の1週間が勝負だからね、おまえという人間をみんなにわかってもらいなさい」 促したのは、新しい環境でも自分らしく生きるための努力。芸が身を助けた、と小堺は言う。 「顔や頭じゃ勝負にならないから、面白さをアピールしたんです」 映画で養われた観察眼のおかげでモノマネは得意。先生や同級生のマネをしてみんなを笑わせる小堺は、クラスの人気者になった。そして、学校の映画授業でウィーン少年合唱団を舞台にした『青きドナウ』を見たことがきっかけで、NHK児童合唱団に入団。 「楽譜も読めないし、4次面接では“練習の日でも見たい寄席があったらそっちに行きます”って答えたんですけど、受かっちゃったんですよ。後で聞いたら、“ああいう変な子がいたほうが面白い”という理由で入れてもらえたらしいです」 同じころ、実は父も面接に臨んでいた。 「ある日、親父が“南極に行く”と言い出して、本当に面接に合格して第9次南極観測隊に同行する給仕になったんです」