誰もアフガンのことを考えず、アメリカ製の民主主義を押しつけた 民主化が失敗した理由は何か。これからどうなるのか【アフガン報告】6回続きの(1)
なぜこうなったのか。 「支援国が自分たちの利益のために行動したからだ。アフガン人のことを考えた国はなかった」。人権活動家マフブバ・セラジ(75)は米欧日の支援が「あまりに表層的で誤っていた」と憤る。 ▽「アメリカの安全」が最優先された アフガンの近代史は混乱と紛争の連続だ。1979年の旧ソ連軍侵攻後、アフガンではソ連軍追放を目指す「イスラム戦士(ムジャヒディン)」が蜂起し、世界各地から志願兵が集まった。東西冷戦下でソ連の影響力拡大を食い止めたかったアメリカは、中央情報局(CIA)を通じてムジャヒディンに金と兵器を提供した。 1989年にソ連軍が撤退を終えると、アフガンは軍閥間の泥沼の内戦に転落する。アメリカはアフガンへの関与を停止した。混乱の中で台頭したタリバンが1996年にカブールを制圧し政権発足を宣言。1998年にはアフガンほぼ全土を支配下に置いた。 流れが一変したのは2001年9月11日。アメリカ・ニューヨークの世界貿易センタービルや首都ワシントン近郊の国防総省に旅客機が突っ込み、日本人24人を含む約3千人の命を奪った中枢同時テロだ。米軍は国際テロ組織アルカイダと、それを保護するタリバンを壊滅するためアフガンに侵攻した。
タリバンの支配下でアフガンに成立した「テロの聖域」をつぶし、アメリカへの脅威を取り除くこと。それがアメリカにとって唯一最大の目的だった。米軍の戦費には民主化と復興予算の6倍近い8370億ドル(約120兆円)が投じられた。民主化と復興支援も「アメリカの安全」を守ることが目的で、日本とヨーロッパはそれに歩調を合わせた。セラジはそう主張する。 ▽民主化プロセスは大急ぎで進んだ 米欧日は目に見える成果を急いだ。2002年6月、移行政権発足。2004年1月、新憲法制定、同年10月、大統領選挙。「アメリカ製の民主主義が降ってきた。アフガン人は何も理解していなかった」。セラジは「国が良くなる」と希望を抱きつつ不安だった。タリバンの母体民族パシュトゥン人が国造りから排除され、欧米的価値観の押しつけも目立ったからだ。 26歳の女性が内務省高官に登用されたこともある。治安の要職に若い女性。欧米の強い意向に沿う「見栄えの良い人事」だった。同様の例は無数にある。セラジは「アフガンの文化や慣習を無視している。間違いだ。いつか痛い目に遭う」と感じた。予感は的中した。