留学先で体重8キロ増……ついたあだ名は「瀬古の丸」 瀬古利彦 マラソン人生を振り返る
ニッポン放送で毎週木曜日の夜8時からお送りしている『NEXT STAGEへの提言Ⅱ』。 日本を代表する各界の著名人が毎週登場。今の日本の礎を築いた著名人たちは、何を考え、何を次世代に伝えるのか。芸能・文化・音楽・スポーツ・経済・政治など、日本を代表する各界の著名人が週替わりで登場し、自身の人生を振り返りながら、「次世代・NEXT STAGE」への提言を発信していく。10月17日(木)の放送では、マラソンの元日本代表で現在は日本陸上競技連盟マラソンリーダーの瀬古利彦が登場した。なお、この日の放送はプロ野球中継のためニッポン放送ではオンエアされず、ネット局のみでの放送となった。
瀬古は、1956年生まれ、現在68歳。三重県桑名市出身。高校時代インターハイで2年連続2冠を達成。早稲田大学ではマラソンランナーとしての才能を開花させ、箱根駅伝にも4年連続出場。実業団時代は世界の主要大会を制し、日本を代表するトップランナーとして活躍。オリンピックにもロサンゼルスとソウルの2回出場。現役引退後は、マラソンや陸上競技の普及や日本陸連マラソンリーダーとして後進の指導に務めている。
■トントン拍子のマラソン人生 最初の挫折は「大学入試で0点」
瀬古はもともと、漫画「巨人の星」の影響で、野球が大好きな野球少年。中学でも、野球部に入部した瀬古だが、どうしてマラソンの世界に足を踏み入れたのか。 瀬古:我々の時代は巨人、大砲、卵焼き。テレビも巨人戦しかやってない。もう半ば強制的に、野球をやったような感じ。小学校5年生か6年生の頃、少年マガジンに連載された「巨人の星」が楽しみで。ある時、星一徹のお父さんが「野球を上手くなりたかったら走れ!」って言ってたんですよ。それを聞いて、小学校の時から、学校まで走って行ったりして。中学校に入っても、当然野球部に入部。でもね、走るのが好きだったのでダッシュしたり、家から学校までの5キロくらいを走って帰ったり。そうするうちに陸上部より早くなるわけですよ。野球の陸上の先生が「瀬古くん、ちょっと足貸してくれ」と。「ちょっと大会出てみないか」って。試しに、市の大会に出たら2000mのレースで優勝しちゃったんです。 その後、瀬古は陸上の名門校である四日市工業高校に進学。高校1年生の時に出場したインターハイでも、好成績を収めるなど、まさにトントン拍子で、本人も「人生甘いな」と語った。しかし、大学進学の際、彼に人生初の「挫折」が訪れる。 瀬古:大学は早稲田に行こうと思って。(高校時代、陸上で結果を出していたので)今だったら大学が取ってくれそうなもんじゃないですか。勧誘とかもされて、ところが受験したら落ちたわけですよ。一浪する羽目になっちゃって。そこで初めて挫折を味わいました。勧誘されたのに落ちた。失礼な話だなと思いました。落ちた理由を聞くと、英語が0点しかなかった。それで、浪人時代に英語を勉強し直すために、アメリカに留学したんですよ。