なぜ、人は集団になると「怪物」になるのか…そもそも「いじめ」とは何か
学校とはどのような場所なのか、いじめはなぜ蔓延してしまうのか。学校や社会からいまだ苦しみが消えない理由とは。 【写真】年収300万円未満家庭、3人に1人が「体験ゼロ」の衝撃! いじめ研究の第一人者によるロングセラー『いじめの構造』で平易に分析される、学校でのいじめ問題の本質――。
いじめの定義
いじめは若い人たちに特有のものではない。いじめはどんな社会集団にも生じる。 一定の制度・政策的環境条件下では、老若男女あらゆる集団でいじめは蔓延する。もちろん教員が生徒を迫害するのもいじめであり、親が子どもを虐待するのもいじめである。 いったい何から何までがいじめなのだろうか。いじめのような臨床的な概念は、実践的な要請に応じて、日常語から可能性を引き出すようなしかたで操作的に定義すればよい。 類書をひもとくと、被害者の意識を基準にした定義が散見されるが、それには問題がある。他人(被害者)が「いじめ」あるいは「苦痛」と感じさえすればいじめであるとすれば、それは何でもいじめになりうる。実際、自分にとって気にくわない他人の言動は、多かれ少なかれ精神的に苦痛である。 また、いじめを単なる攻撃と区別しないような考え方もあるが、いじめと単なる攻撃は異なる。攻撃には、「目的のための手段」としての戦略的攻撃と、他人を苦しめることを味わおうとする嗜虐的攻撃がある。実際には、この二つは結合していることが多いが、それ自体、別のものである。 「目的のための手段」としての攻撃は、純粋にそれ自体では、いわば利害計算の「解」にすぎない。戦略的な攻撃の場合、目標にたちふさがる障害が除去されればよく、相手が苦しむか苦しまないかはどうでもよいことである。たとえば子どもの治療費のために銀行強盗をしたら、それもいじめと呼べるだろうか? 合理的な手段として暴力によって怖がらせる作業は、それだけではいじめではない。 それに対して嗜虐的攻撃では、他者が苦しむことがはじめから要求されている。そこでめざされているのは、加害者が前もって有している欲望のひな型が、(殴られて顔をゆがめるといった)被害者の苦しみの具体的なかたちによって現実化されることである。加害者は、他者の運命を掌中に握る感触を、壊れゆく他者の苦しみのなかから、我がものとして享受しようとする。この嗜虐意欲が、いじめ概念のコアである。 いじめが成立するためには、(1)加害者の嗜虐意欲、(2)加害者による現実の攻撃行動、(3)被害者の苦しみという三つの要素が必要である(いじめの三要件)。以下では、この三要件を概念の中心に位置づけて、いじめを、(1)最広義、(2)広義、(3)狭義の三段階に分けて定義する。 (1)最広義のいじめ定義A「実効的に遂行された嗜虐的関与」 いじめ概念のコアにあるのは、加害者側の嗜虐意欲である。それが加害者側の行為を通じて被害者側の悲痛として現実化し、その手応えを加害者側が我がものとして享受する。これが「実効的に遂行された関与」ということの意味である。 また「実効的に遂行された」という項目によって、「人知れず丑の刻参りをして藁人形に五寸釘を打ったが何の影響力もなかった」といった場合を除外することができる。いじめは、一人称の心理的な情熱ではなく、あくまでも心理‐社会的な相互作用として成立する。 ただこの定義Aだと通り魔のケースも含まれてしまう。われわれがいわゆる「いじめ」らしく感じるいじめの多くは、何らかの社会状況に構造的に埋め込まれることによって生じる。 したがって、次に示す広義の定義Bがもっとも自然な定義になる。 (2)広義の定義B「社会状況に構造的に埋め込まれたしかたで、実効的に遂行された嗜虐的関与」 一個人による孤立的行為がおよぼす有害作用は、集団化したタイプに比べれば相対的にたかがしれている。たとえば小学校低学年によくみられる、グループを組まない乱暴者による純粋な一対一のいじめは、学級制度(被害者は制度的に所属を強制され、加害者との関係を切断することができない)という社会状況に構造的に埋め込まれているが、そこに集団の力は作用していない。 それに対して、もっとも研究に値するいじめの中核群は、群れた「みんな」の勢い、あるいは「自分たちなり」の特殊な秩序を背景にしたタイプである。そこで狭義のいじめの定義Cは次のようになる。 (3)狭義の定義C「社会状況に構造的に埋め込まれたしかたで、かつ集合性の力を当事者が体験するようなしかたで、実効的に遂行された嗜虐的関与」 以上が、筆者によるいじめの定義である。
内藤 朝雄(明治大学准教授)