大山のぶ代より水田わさびのほうが“原作らしい”? ドラえもんの声優交代が示す時代性
ドラえもんはのび太の「保護者」ではなく「バディ」
原作のドラえもんは、連載最初期を除いてあまり保護者っぽくない。その出自こそ、ダメなのび太の世話をするため22世紀からやってきた保護者という設定だが、当初「のび太くん」と君付けだった呼び方は、すぐに「のび太」と呼び捨てに変わった。距離が縮まり、保護者からバディ(相棒)になったのだ(なお、アニメ版は一貫して「のび太くん」呼び)。 ドラえもんは、ときにのび太と一緒に調子に乗ったり、ママからふたりまとめて叱られたりする。のび太を助けるだけでなく、のび太に助けられもする。のび太と意地を張り合ったり、取っ組み合いの喧嘩をしたりすることもある。 それらは明らかに、保護者のふるまいではない。 ドラえもんの身長は「129.3cm」だが、これは連載当初の小学4年生の平均身長をもとに、作者了解のうえで決められた設定だと言われている。のび太は小学4年生。すなわちドラえもんはのび太を決して見下ろさない。やはり保護者ではなく対等な関係性なのだ。 幼げで、“ちょっとバカっぽい小学生男子”ライクなわさドラは、「のび太と一緒にバカもやるバディ」感が大山ドラより強い。2005年当時の筆者が「これぞ原作ドラえもんだ」と喝采したのは、そういうわけである。
素晴らしい未来の体現たる大山ドラ、窮乏下で手を取り合うわさドラ
無論だが、大山ドラのキャスティングが「間違っていた」わけではない。むしろ大山は、そして水田も、ドラえもんを演じていたそれぞれの時代の気分を奇しくも体現していたように思う。以下は与太話半分、真面目半分として聞いてほしい。 20世紀の日本で、子供たちがフィクションに求める「心から頼れる存在」は、自分より能力が圧倒的に優れたチート的な庇護者だった。高度経済成長期を経てバブルが訪れ、それが崩壊してもしばらくの間は、多くの人は「国は基本的に成長し続ける。人類は発展し続ける。働けば働くほど富むことが可能」と信じていた時代。そういう時代には、最も進んだ者、最も持てる者が、最も尊敬の念を抱かれる。 20世紀、未来とはイコール希望のことだった。22世紀の未来から来た、欲望を「みんなみんなみんな叶えてくれる」(「ドラえもんのうた」より)ドラえもんは、それだけで無条件に憧れの対象。“未来から来た”という属性は、ただそれだけで称賛された。 ところが20世紀が終わりに近づくと、雲行きがだんだん怪しくなってくる。就職氷河期が訪れ、後に「失われた30年」と呼ばれる経済低迷期が幕を開けると、日本はまずIT分野で遅れを取った。新世紀に入ると、小泉内閣(2001~06年)による新自由主義的な政策が貧富の差を拡大させ、非正規雇用者が増加。のちにロスジェネと呼ばれることになる就職氷河期世代が「未来は必ずしも明るくない」と感じ始めると、社会の空気は徐々に変容していく。 最も進んだ者、最も持てる者は、むしろ不信感とやっかみの対象となった。チートは信用できない。信用できるのは自分と同じ目線で一緒に悩み、一緒に失敗してくれる仲間〈バディ〉だけ。 小泉内閣が日本社会の舵を取って5年目の2005年、ドラえもん役の声優は、保護者:大山から、バディ:水田にバトンタッチした。以降20年近く、わさドラは続いている。ダメなやつと一緒に悩み、一緒に失敗するわさドラは、00年代後半以降の成長が停滞した日本社会に、奇しくも、見事にフィットしていた。
ゴールデンタイムからの撤退
TVアニメシリーズ『ドラえもん』の放送時間は2019年10月より、38年間続いた「金曜19時」から「土曜17時」に変更された。最も視聴者の多いとされるゴールデンタイムからの撤退である。 この理由を、加速する少子化によってTVアニメをオンタイムで観る子供たちが減ったからと考えるか、『ドラえもん』という作品自体の人気減退とみるか。 あるいはまた、ドラえもんの“未来出身”という出自、あるいは“未来の道具”という物語を構成する重要な小道具が、単に“未来”属性であるというだけでは、無条件で魅力的とは言えなくなった――と取るか。 あくまで与太話である。半分は。
稲田豊史