殴る蹴るが当たり前の平壌歩兵第44部隊。上官のびょう付きスリッパで張られた頰は腫れ上がり、1週間は食事をかめなかった【証言 語り継ぐ戦争】
上官からの殴る蹴るは当たり前だった。演習の合間の昼食は、配膳の準備から片付けまで1時間しかなく、小銃を立てかけたまま急いで食べた。すると「小銃の手入れをする前に食べるとはけしからん」と裏にびょうが付いたスリッパでほおを張られた。腫れ上がり、1週間はかむことができず、食事をのみ込むようにして流し込んでいた。 仁川で陣地構築をしていたとき、終戦を迎えた。ラジオが古く聞き取れず、大隊長が「敵が攻撃してこない限り応戦しないように」との訓示があり、停戦かと思った。 8月末に師団長命令で平壌駅に到着し、武装解除が言い渡された。そこで初めて無条件降伏したことを知った。 (2024年8月7日付紙面掲載「平壌歩兵部隊、抑留、引き揚げ㊤」より)
南日本新聞 | 鹿児島
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