杉江松恋の新鋭作家ハンティング 十代の心情をあらゆる角度から描き出す『まだ終わらないで、文化祭』
どこから一方向からではなく、あらゆる角度から見て人の肖像を描く。 藤つかさ『まだ終わらないで、文化祭』(双葉社)を読んで、あ、いいな、と思った瞬間があった。今のはなんだろう、とページを繰る手を止めて考えてみる。あ、そうか、キャラクターの見せ方に感心したんだ、と納得して、それ以降はさらに興味深く読むことができた。 人間を書くことを主題の一つとする小説にとってこの、人物像を立体的に浮かび上がらせるという技法は最も重要なものである。 話はおもしろいのだけど、なんだか平板でどこかで見たようなキャラクターしか出てこない。 もちろんそういう小説があってもいい。いいのだが、よほど話に起伏がないと我慢できないような気がする。少なくとも、私はそうだ。 『まだ終わらないで、文化祭』(双葉社)は、公立八津丘高校の二日間にわたる文化祭を描いた群像劇である。文化祭前夜の、名前が明かされない人物の視点で語られるプロローグから始まるこの物語は、文化祭後夜のエピローグで幕を閉じる。こちらの視点人物は名前が明示されるのだが、ここでは書かないでおこう。間に挟まるのは文化祭一日目と二日目の出来事で、時系列に沿って進んでいき、視点人物が切り替わっていく。 最初に語り手を務めるのは文化祭準備委員会に所属する三年三組の市ヶ谷のぞみだ。目を惹くような容姿の持ち主であるのぞみは、人付き合いも巧く、教師や生徒から分け隔てなく声を掛けられるという存在である。文化祭開始前最後のチェックに回っていたのぞみは、日本史教師の尾崎に呼び止められる。尾崎がのぞみと、同行していた三年生の佐竹優希に指し示したのは、二年前の文化祭で使われたポスターだった。BE YOURSELF、自分らしくあれというスローガンが書かれたものである。 二年前の文化祭では不祥事が起きていた。生徒が予定になかったことをしでかして暴れ、制止しようとした教師が怪我をしていたのである。もともと八津丘高校では、文化祭で生徒がなんらかのサプライズを仕掛けて周囲を驚かせるということが繰り返されていた。その伝統に則ったものとも言える。だが、学校側は事態を重く受け止め、以降は文化祭への干渉が強まる結果になった。誰かが一連の顛末を撮影してSNSしたため、話題が拡散してニュースでも放映されるなど、学外への影響がはなはだしかったためだ。 尾崎によれば、そのポスターは早朝に張り出されていたものなのだという。行為者の意図は不明だが、もし二年前のようなことをもう一度行うという予告だとすれば、文化祭開催が妨げられることにもなりかねない。のぞみは優希と共に、ポスター掲示をそれとなく探す役を言いつかってしまう。 こうした形で話は始まる。物語にはミステリーのプロットが用いられていて、ポスター掲示の犯人とその意図を探るというのが本筋となっている。ポスターが貼られた時刻などから関係者のアリバイも確認することが可能となる。このプロットが導線を作って進んでいくのだが、後半で話は広がり、単なる犯人捜しに終わらなくなるというのが巧い。これ以上は書かずにおくが、真相がわかった時点で見えてくるものがあり、反転してそれまでの物語に光が当てられることになる。 交替しながら語り手を務めていく登場人物たちにはそれぞれ、胸に秘めた思いがある。それらは言語化が難しく、口にしてしまえば嘘臭くなってしまうようなものだ。たとえば軽音楽部の一年生・艮(うしとら)カレンは、自分の周りを取り囲んでいる目に見えない負荷のようなものを、何かで一掃してしまえないかと思っている。彼女が欲しているのはロックンロールを演奏することだが、それは文化祭の目的には反していると教頭から止められてしまう。体制が奪おうとするものの中にこそロックンロールはあるだろう。そこで彼女が禁を破って演奏をする、という展開になれば話は早いのだが、そうはならない。カレンがロックンロールを求めている理由は、そうした一時的な発散では追究しきれないものだからだ。学校の指示を受け入れてフォーク、サイモン&ガーファンクルの「America」を演奏しながら、カレンは内なる自分と対話をしていく。 自分の足止めをしている小さな障壁のようなものの存在に気づいても、それが何かがわかることは少ない。簡単に答えが出ないからこそ、そこで足を止めて考えなければいけないのだし、答えが出なくてもどかしい思いをするのだ。そうした姿を見せていく小説で、彼らに普段とは違う場所で考えを巡らせるための舞台装置として文化祭が用いられているわけである。個々のキャラクターが登場し、自分との対話をしていく道筋の随所にポスター掲示の謎に関する手がかりが振りまかれている。それらを一つひとつ拾っていくと話が進んでいき、少しだけ時間が経って心境の変化したキャラクターたちと再会するという仕掛けである。グランドホテル形式のように、最後に全員を集めて大団円を迎えさせるのではなく、個々に集まって自由解散、みたいな緩い構成になっていることも効を奏している。文化祭は場であって、主題ではないのである。 うまいな、と思ったのはある登場人物の描き方だ。名前は出さないが、このキャラクターだけは印象が二転、三転するように書かれている。卵の殻に少しずつひびが入っていくような感覚とでも言うべきか。読み終わってみると、謎解きと同等かそれ以上の比重で、その人物の揺らぎが描かれていることがわかる。それって何、本当にそうなの、と読者が問いかける対象として置かれているキャラクターなのだ。そういう反響版みたいな人物を置いて、読者の声を物語内に広く響かせていく趣向がおもしろいではないか。 藤つかさのデビュー作は第42回小説推理新人賞を受賞した「その意図」である。「その意図は見えなくて」と改題の上、同題短篇集(双葉社)に収録された。それが最初の著書で、本作が二冊目、そして最初の長篇ということになる。第一作も青春小説として好印象の出来だったが、二作目でさらに技巧に磨きがかかったように思う。十代の心情を、その不完全さ、不安定さを損なわないでよく文章化している。心を描く小説の書き手として、この資質は得がたいものだ。壊れやすいものを描く、その手つきの優しさに感心する。
杉江松恋