「中学生にもわかるニュース」をコンセプトにするも初回は大コケ…それでも国民的番組になった『ニュースステーション』で久米宏が「ニュースの時代」の到来を確信した瞬間
「あんな内容でも100人のうち10人近くが見てくれたのか」
『ニュースステーション』がスタートする前に、僕はテレビ朝日の幹部から一定の視聴率を取るよう求められていた。当時の午後10時台の平均視聴率が14%前後。 「平均視聴率で15%はほしいですね」 「それは無理です」 「じゃあ、どれくらいなら?」 「うーん、12%くらいでしょうか」 視聴率を取るためにはある程度娯楽的な要素が必要だが、本来、ニュースと娯楽は相いれない。視聴者におもねるかたちで娯楽性を追えば、ニュース番組本来の使命を失う恐れもある。僕としては二ケタに届けば十分だと思っていた。 ところが、プロローグで記したように「鮭報道」に象徴される初日は失敗に次ぐ失敗。視聴率は9.1%と二ケタにも届かなかった。 この数字の意味は、今とは違う。当時、プライムタイムの番組なら最低でも12~13%は取らなければならない。しかし、僕としては「あんな内容でも100人のうち10人近くが見てくれたのか」と逆に驚いた。 番組は月曜日に始まったが、その週も翌週も何をどんなふうに放送したか、まったく覚えていない。出演者もスタッフも懸命に動いてはいるが、現場でそれぞれ何をすべきか把握しておらず、空回りするばかり。すべて見切り発車の中での混乱だった。その後の視聴率も一ケタ台に終始し、5%を切る日もあるほどの低迷ぶりだった。 そもそも番組スタッフの間で意思疎通がうまく図られていなかった。終了後は反省会を連日、深夜2時ごろまで続けていたが、僕はしばらくその存在すら知らされておらず、一人さっさと帰宅していた。 「すみません、なぜ久米さんだけ反省会に出ないんだと、みんな言っているんですけど」 1週間ほどしてスタッフに告げられ、初めて知った。よく言えば気を遣ったのだろうし、悪く言えばよそ者扱いだった。 反省会では小田さんが大声を張り上げ、スタッフたちを叱り飛ばした。「カメラワークがなっていない」「カメラの切り替えがひどい」「原稿は決まり文句ばかりで新しさがない」 報道局とOTO組の反目も相変わらずくすぶっていた。報道局にしてみれば、「ニュースのことを何も知らずに勝手なことばかり言うな」。OTO組にすれば「なぜ原稿をもっとわかりやすく書けないのか」。 僕も発破をかけた。 「ニュース番組にも演出はいる。取材もカメラも、ほかと同じ視線ではダメだ。たとえば事件現場にカメラが駆けつけたら、ほかと同じ現場を撮っても意味がない。みんながカメラを向けている反対側を撮ったらどうか」 繰り返し言ったのは「裏番組をちゃんと見たことがあるか」「街に出て歩いているか」。スタッフたちは自分が担当する特集にどっぷり浸かり、それ以外のことが考えられなくなっていた。世間でいま何がはやっているか、裏番組で何を放送しているのかすら知らない。それでは視聴者を惹きつける番組をつくることができるはずがない。 スタッフたちは連日連夜、激しい討論(ときに殴り合いのケンカ)を続け、明るくなるまで酒場で憂さを晴らしながら活路を求めた。僕は小田さんと毎週金曜、番組のあり方、問題点について、やはり未明まで話し込んだ。 文/久米宏 ---------- 久米宏(くめ ひろし) 1944年埼玉県生まれ。67年、アナウンサーとしてTBS入社。「土曜ワイドラジオTOKYO」「ぴったしカン・カン」「料理天国」「ザ・ベストテン」など、数々の人気番組を担当する。79年、同社を退社してフリーとなり、1985年に放送を開始した「ニュースステーション」のキャスターとして18年半にわたり活躍、まったく新しいニュース番組を作り上げる。 ----------