米で大ヒットの映画「オッペンハイマー」 子孫らが語る原爆開発と投下から得るべき教訓とは(3)
■祖父が広島と長崎で見たもの
――広島と長崎への原爆投下後、あなたの祖父らは両都市に入りました。何を見て、原爆の被害や放射線被害をどのように認識したのでしょうか? 私の祖父と同僚の医師スタフォード・ウォレンは、医師・科学者・軍らのグループとして、日本の降伏直後の1945年9月5日に横浜に到着し、広島と長崎に行きました。彼らは広島に入った最初のグループで、グローブス将軍によって集められました。放射線被害を否定するために、日本から実際の情報を得ることが目的でした。グローブス将軍は、日本からの情報によって放射線被害が大きく、健康に重大な影響をもたらしていると分かることを懸念し、それを抑え込みたかったのです。
祖父らが目撃したのは恐ろしいことでした。祖父が調査団の人たち、そして被爆者の方々と撮った写真を持っていますが、彼らの被害が分かります。放射線によるダメージもです。彼らは原爆投下の1か月後に現地入りしましたが、放射線被ばくによる死者は増え続けていたのです。ウォレン医師によると、病院を訪問した際にいた被爆者の方が、翌日行くと亡くなっていたということもありました。彼らはそれを報告書にまとめ、グローブス将軍に渡しました。1945年11月の議会の公聴会で、彼が調査について証言するためです。しかしグローブス将軍は議会証言で、医師がまとめた報告をねじ曲げて伝え、報告書で書かれた放射線被害を軽視しました。彼は放射線被ばくの危険な影響を過小評価しようとしたのです。
――医師らはトリニティ実験以前から放射線被害の危険性を警告していましたが、軍は隠蔽・軽視を続けました。こうしたあなたの祖父ら、医師の経験から学ぶべき教訓はなんでしょうか? アメリカには、原爆についての「公式見解」、「支配的見解」のようなものがあります。「原爆が第二次世界大戦を終わらせ、アメリカ人だけでなく日本人の命も救った」「当時残された選択肢は、原爆投下か、多くの犠牲を伴う本土上陸作戦しかなかった」というものです。一方でそれに反する見解もあります。「選択肢はその2つだけではなかった」「日本はあらゆる意味で既に敗北していて、原爆は必要なかった」という見解です。「アメリカは日本よりも、ロシアの動きを懸念していた(から原爆投下に踏み切った)」という分析もあります。その中で、放射線の影響の恐ろしさに言及する人もいました。しかしアメリカ政府の高官は、この見解を十分に認識していたにもかかわらず、軽視しようとしたのです。例えばスティムソン元陸軍長官(*原爆投下時の陸軍長官)が発表した論文(1947年)では「原爆投下によって日本上陸作戦は回避され、100万人のアメリカ軍兵士の命が救われた」と書かれてますが、放射線被ばくについては全く言及されていません。これは明らかに意図的です。放射線被ばくの長期的な影響に関する知識があれば、核兵器の開発にもっと国民から抵抗があったでしょう。原爆や水爆の開発を続けるために、放射線の影響を軽視し続ける理由があったのです。 ――それは、現在の核兵器使用を正当化する議論にも影響があると思いますか? その通りです。例えば「戦術核兵器」というのは誤った言葉の使い方だと私は思います。戦術核は広島と長崎で投下された原爆よりもはるかに強力です。広島と長崎を訪問すれば・・・日本の人々はいまだに放射線の影響について研究し、人々は今も放射線の影響に苦しんでいるのです。核兵器を通常兵器と同じように理解してはいけません。恐ろしく長期的影響がある、独特のテクノロジーなのです。 (4)へ続く 【ジェームズ・L・ノーランJr.さん】米ウィリアムズ大学で社会学の教授を務める。祖父のジェームズ・F・ノーラン氏は医師として、原爆開発計画「マンハッタン計画」に参加。祖父の残した資料を発見したことをきっかけにマンハッタン計画と医師たちとの関係を調査し、著書「アトミック・ドクターズ」にまとめた(邦訳版も出版)。去年長崎を訪問し、現在は長崎への原爆投下についての研究を行っている。