米で大ヒットの映画「オッペンハイマー」 子孫らが語る原爆開発と投下から得るべき教訓とは(3)
■医師からの放射線に関する警告を軽視した軍
――現代の我々はもちろん、原爆による放射線被害が、原爆による被害の大きな要素であることを知っています。マンハッタン計画や広島・長崎への原爆投下時は、放射線の影響はどのように理解されていたのでしょうか? プルトニウムやウランは、新しい元素なので、彼らはそれらについて多くは知りませんでした。ある程度は知っていましたし、危険であることも知っていました。放射線による被害があることも知っていましたが、おそらく彼らは、長期的影響については知りませんでした。トリニティ実験前におきた重要な出来事の1つが、医師が放射性降下物について懸念していたことです。医師らは報告書をまとめて、(計画の軍トップ)グローブス将軍に対して、この問題を深刻にとらえて、もっと厳格な安全性と避難の措置をとるように要請したのです。 グローブス将軍にその報告書を渡したのは、祖父でした。グローブス将軍は、祖父に対して否定的な態度を示し、被ばくに関する健康と安全面の問題よりも、国家安保と秘密の問題をもっと懸念していると伝えたのです。報告書を読んだ後、グローブス将軍は祖父を、機密に関わる問題を不当に心配している、目立ちたがり屋の記者みたいなやつだと言って否定したのです。
■医師たちが屈した「圧力」
――なぜ米軍は、放射線の影響を過小評価したのでしょうか? 機密保持の問題以外にも理由があったと考えますか? マンハッタン計画に関わっていた私の祖父ら3人の医師は、放射線被害を懸念していました。科学者の中にも同じ意見の人がいて、予備実験を行ったところ、放射性降下物が観測されたのです。計算の結果、深刻な放射線被害が出るということで、彼らは非常に懸念していました。しかし、計算をし直すよう圧力がかかったのです。 いくつかの圧力がありました。ひとつは、軍および政治からの圧力。トルーマン大統領(当時)はポツダム会談(1945年7月、米英ソ3か国の首脳が、ドイツや日本の戦後処理について協議した)に出席する前に、原爆が完成したのかを絶対に知りたかったのです。原爆がソ連のスターリンとの交渉に役立つと考えたのです。 もうひとつは科学的な圧力です。科学者は約2年も原爆開発に取り組んでおり、核分裂からエネルギーを取り出せるのか、結果を出したいという圧力もありました。映画「オッペンハイマー」でも描かれている1954年の公聴会で、オッペンハイマー氏は、「科学的に甘美なものを見つけたら、まずやってみるものだ」と発言しています。発見という科学的衝動でしょう。 ヘンペルマン医師によると、彼らは計算し直し、核実験ができるところまで懸念レベルを下げたのです。当初の計算では核実験を行うべきではなかったからです。医師たちはまだ懸念していましたが、核実験が可能になるように懸念のレベルを下げたのです。このような様々な圧力がありました。グローブス将軍のように、既に20億ドルも費やしていたので後戻りできない、という考えもありました。 ――医師らも当時、そのような圧力に従うしかなかったと思いますか? そう思います。医師はトリニティ実験前、日本への原爆投下前、マーシャル諸島での核実験前に、何度も警告していました。ロスアラモス研究所内の安全性にすら懸念がありました。放射線被ばくによって死亡事故も起きました。医師はその度に警告しましたが、軍が押し戻し、否定しました。時には医師が伝えたことを意図的に間違って解釈すらしました。私の祖父を含めて、軍に所属している医師もいたので、難しい立場でした。軍とうまくやって行く必要があるし、時に放射線被害の隠蔽を手助けすることもありました。複雑な状況にあったのです。医師たちは正直に何が起こるかについて警告を発し、影響を懸念していましたが、ある種の圧力に屈しなければならない立場に置かれたのです。