ハンセン病患者の親と引き離された子ども 今なお続く「国への不信」
高松港から約8キロの瀬戸内海の離島、大島には、ハンセン病の回復者が暮らす国立療養所「大島青松園」がある。その島に57年前まで、ハンセン病患者である親と引き離された子どもたちが暮らす児童養護施設があったことを9月24日付四国4県版の紙面で伝えた。 【写真】庵治第二小・中学校の集合写真。児童・生徒のうち数人がハンセン病患者の親と引き離され、楓寮で暮らしていた=1953年ごろ、奥村学さん提供 「楓(かえで)寮」(大島青松園保育所)と呼ばれた施設があったのは1931~67(昭和6~42)年。背景には、現在では国が誤りだったとしているハンセン病患者の強制隔離政策があった。 寮生たちがどんな人生を送ったのかは「ほとんどわかっていなかった」(大島青松園社会交流会館の学芸員、都谷禎子(つだにさちこ)さん)が、関西在住の80代の男性が取材に応じてくれたことで一端が判明した。 見えてきたのは、国策の誤りが、患者本人だけでなく、家族にも深刻な被害を与えた実態だ。 男性は9歳のとき、ハンセン病を発した母と故郷の大阪を追われた。楓寮では食事は提供され、小中学校にも通えたが、療養所にいる母と面会できるのは月1回。愛情に飢え「特にクリスマスや正月はつらかった」という。 小中学校の同級生の多くは、公務員である療養所の職員や医師の子どもたちだった。差別された経験はなかったが、「彼ら彼女らは大学に行くけど、ぼくらは中卒止まりという無力感が常にあった」。 男性は支援者に恵まれ工業高校に進学できたが、寮出身者の中には、10代で自殺した人や、事件を起こして逮捕された人もいたという。「せめて進路相談の仕組みがあれば、それぞれの人生は違ったと思います」 記事は、東京や大阪などで配達される夕刊にも掲載され、多くの反響があった。 12月初め、男性と7カ月ぶりに再会した。取材中、「本当はそっとしてほしい」とつぶやいたことが気になっていたからだ。 男性は「記事になることで、周りの目が変わるのが怖かった」と明かし、「自分が話さなければ忘れ去られるところだった。記事になって良かった」と話した。 記事でも触れたように、男性は国が2019年に創設したハンセン病元患者の家族への補償金を申請していない。記事掲載後、きょうだいと話し合ったが、やはり「役所に名前が残るのも怖い」という気持ちは変わらず、今後も申請しないという。国への不信感の表れだ。 葛藤の中で体験を語ってくれた男性の勇気に敬服するとともに、記者の仕事の重みを考えさせられた。(武田肇)
朝日新聞社