19世紀のホワイトハウスで繰り返された交霊会、リンカーンも出席、その悲しい理由
リンカーン家の悲劇
南北戦争時代、エイブラハム・リンカーン大統領は、国家の悲劇に向き合いながら、個人的な悲劇にも見舞われていた。1862年2月20日、大統領の11歳の息子であるウィリアム(ウィリー)・リンカーンが、腸チフスに感染してホワイトハウスで死亡したのだ。 息子の死はリンカーン夫妻を打ちのめしたが、特に母親のメアリー・トッド・リンカーンの悲しみは深かった。メアリーは何週間も床に伏し、息子の葬儀にも出られないほどだった。その後、元の生活に戻っても、亡くなった息子にもう一度会いたいと強く願い続けていた。 そんな彼女がすがったのが、霊媒師だった。ピュリツァー賞を受賞した歴史家でリンカーンの伝記を書いたデビッド・ハーバート・ドナルド氏は、現存する文献を調べて、メアリーがホワイトハウスで8回の交霊会を開いた可能性があると計算した。 そのうちの1つが、1862年12月にホワイトハウスのレッドルームと呼ばれる部屋で、霊媒師のネティ・コルバーンを招いて行われたものだ。 後にコルバーンは、大統領も交霊会に参加したと書いている。トランス状態に入ったコルバーンが交信したのは、ウィリー・リンカーンの霊だけではなかった。このときに交信した他の霊たちが、大統領に奴隷解放宣言を出すよう強く勧め、それが「政権と大統領自身の生涯にとって最も輝かしい業績となるだろう」と予言したと、コルバーンは主張している。 交霊会を開催することで、メアリーは死後も魂が生き続けるという思いを強めた。そして、夢のなかにも息子が出てくるのだと主張し、「ウィリーは生きているのよ」と、異母妹のエミリー・トッド・ヘルムに話していた。「毎晩のようにやってきて、以前のように愛らしい笑顔でいつも私のベッドの足元に立っているの」
流行の終焉
1924年、ホワイトハウスは再び喪に服していた。カルビン・クーリッジ第30代大統領の16歳の息子カルビンが、靴下を履かずに靴だけでテニスをした後、つま先に水ぶくれを作ってしまった。それが化膿して敗血症を起こし、7月7日に死亡した。 クーリッジ大統領夫妻もまた、霊媒師に助けを求めたのだろうか? 少なくとも、著名な奇術師のハリー・フーディーニはそうだと信じていた。当時、第一次世界大戦とインフルエンザの世界的流行の影響により、心霊主義や交霊会、霊媒師が再び注目を集めていた。しかし、それらすべてをいかさまと信じて忌み嫌っていたフーディーニは、霊媒師や霊能者の正体を暴こうとしていた。 1926年、フーディーニは占い禁止令を検討する連邦議会の公聴会で証言した。この公聴会において、ある者がこんな主張をした。ワシントンD.C.の霊媒師ジェーン・コーツが、「クーリッジ大統領とその家族がホワイトハウスで交霊会を開いていたのを知っている」と話していたというのだ。 クーリッジ大統領の友人たちは、この主張をかたくなに否定し、容認できることとできないことの線引きを明確にした。米国社会が変化するなかで、この頃には、交霊会は堂々と公言できる類のものではなくなっていたようだ。 第二次世界大戦時になると、心霊主義はかつてのように信奉者を引き付けることはなくなっていた。ホワイトハウスでの交霊会も、今ではおかしなエピソードとして歴史の片隅に残るだけだ。
文=Parissa DJangi/訳=荒井ハンナ