『リトルマン・テイト』俳優業を極めたジョディ・フォスターが選び取った新たな挑戦
子役に対して嘘をつかない演出法
俳優が監督デビューを飾るとなると、「さて、お手並み拝見」と嘲笑じみた目線や無言のプレッシャーも強くあったはず。しかし彼女はブレなかった。何ら専門的な映画技術を学んでいなくとも、彼女には子役時代から撮影現場に立ち続けてきた確固たるキャリアがある。その間、観察眼の鋭い彼女は監督がどんな仕事をするのかを自ずと見て学び、大方のことは他の現場スタッフ以上に把握していたのである。 とりわけ際立っていたのは、やはり子役への対処の仕方だ。ジョディは共演者として、監督として、子役のアダム・ハン=バードと一緒に、共に嗜みのある空手をしてコミュニケーションを図り、演出の上では「嘘をつくこと」だけは絶対にしなかった。すなわち、何も状況がわかっていない子役からリアルな反応を引き出そうと「大変!!あなたのぬいぐるみが死んじゃった!」などと呼びかけることは一度として無かった。 むしろ等身大の目線で「こんな”ふり”をすればいいのよ」とか「ほかの人の目から見て自分がどう見えるかを考えればいいのよ」と、主演のアダムが第三者の目で客観的に自己を見つめられるように促すことが多かったようだ。 一般的に子供時代といえば視野が限られ、怖いもの知らずで、自分中心に世界が回っているようにすら思えるもの。しかし本作における主人公フレッドの目を通した”見え方”は全く異なる。多くの知識と理解力を持つ彼にとって世界はあまりに広くて大きくて、自分の存在なんて実にちっぽけ。その上、先行きの見えない現状や未来について、無力感で押しつぶされそうになっている。 このスクリーンに焼き付けられた子供らしからぬ客観的な視座や孤独感は、ジョディ流の無理のない演出やアドバイスによって巧みに引き出され、結実したものと言えよう。
知性と心を満たしながら人生を歩んでいく
この物語にはハッピーエンドやバッドエンドと呼べるような明確な結末は存在しない。むしろ登場人物の3人(フレッド、母、心理学者)はそれぞれに思い悩み、生き方としての最適解がきっとどこかにあるはず、と懸命に探り続ける。その試行錯誤の「過程」にこそ重要な意味があると伝えているかのようだ。 ジョディは前述の書籍の中で、「フレッドには二つの面があるのーーそれは知性と心」と語っているが、なるほど、ジョディ演じる母親が彼の「心」を潤す役柄だとするなら、児童心理学者のジェーンは「知性」を刺激し、満たしていく役柄だ。二人はまさに天秤の両極のようなもので、どちらかの要素が不足すると、主人公は途端にバランスを崩してしまう。この辺りも、プライベートと映画業界とのバランスに気を配りながら大きくなったジョディにとって、身に覚えのある心的領域なのだろう。 『リトルマン・テイト』は二度のオスカーに輝くジョディ・フォスターが初監督を務めた長編映画としては、やや小粒で地味な印象を受ける。と同時に荒削りさや初々しい感性の暴走が全くなく、新人どころかベテラン監督が気負いなく撮り上げたかのような成熟ぶりが感じられるほどだ。 製作費1,000万ドルほどで撮り上げたこの作品は、同年公開の『羊たちの沈黙』との相乗効果もあって注目を集め、2,500万ドルの興収を打ち出した。 しかしジョディにとってみれば、そこに商業的成功以上の意義があったのは明白だ。今や還暦をすぎてもなお自分のペースを崩さず第一線で走り続ける姿が印象的だが、『リトルマン・テイト』はその精神的な基盤を覗き見るのに最適の一作と言えるのかもしれない。 参考資料 ・「ジョディ・フォスターの真実」フィリッパ・ケネディ著、中俣真知子訳、1996年、集英社 ・https://www.newyorker.com/magazine/2024/01/01/how-a-script-doctor-found-his-own-voice 文:牛津厚信 USHIZU ATSUNOBU 1977年、長崎出身。3歳の頃、父親と『スーパーマンII』を観たのをきっかけに映画の魅力に取り憑かれる。明治大学を卒業後、映画放送専門チャンネル勤務を経て、映画ライターへ転身。現在、映画.com、EYESCREAM、リアルサウンド映画部などで執筆する他、マスコミ用プレスや劇場用プログラムへの寄稿も行っている。 (c)Photofest / Getty Images
牛津厚信