ネオナチの父親の言葉に込められた思い ドイツ映画『女は二度決断する』
法廷記録にあったネオナチの父親の言葉「どういう形でもいいからこの言葉を使いたいと思った」
裁判で裁かれるネオナチの若い夫婦。彼らの犯行であることを、父親(ウルリッヒ・トゥクール)が証言する。父親は正義を貫くために、息子の犯罪を証言するが、カティヤにとっては皮肉な結果となる。あの短いシーンに登場する父親のキャラクターが、台詞が、後々まで残った。彼を登場させ、証言させたのにはどういう意味があったのか。 アキン:今回、実際のNSU事件の法廷記録をすべて見ました。この映画には、ネオナチの父親が口にした言葉を、一言一句すべてそのまま使用しています。ドイツの法廷では、立つこともできないよう厳しく管理され、感情が決して出ないよう抑えられた空気の中で裁判が進行します。それが何千ページにもわたって記録として残されている。あの言葉に出合った時、とりとめのない航海の中で、突然島が現われたような気がしました。 私はとても心を動かされ、どういう形でもいいからこの言葉を使いたいと思ったのです。しかも殺人者の父親からでた言葉ですから。映画の中でネオナチに声を与える必要はないと僕は思っていました。そうしなくても様々な方法で、彼らがどんな人間か見せることができると思ったからです。そのひとつが、この父とのカティヤの会話でした。カティヤと犯人たちは、同じドイツ北部地域の出身であることが分かります。だからこそ父親は「よかったらお茶でもしませんか」と声をかけるわけです。 同じような環境で育ったのに、ネオナチになる者もいれば、彼女のようにルーツを他国に持つ人間と結婚する人もいる。あの場面には、彼らのバックグラウンドがいかに似ているか見せる意図がありました。同時に母親として子どもを愛する姿と、父親として子どもを愛する姿の対比も見せたかったのです。
最終章の「海」をどう捉えていたのか?
物語は、3章に分けられ、それぞれタイトルがつけられている。第3章のタイトルは“海”。すべての物語が帰結するこの章のタイトルをクルーガーはどう受け止めていたか、そしてアキン監督はなぜ「海」というタイトルにしたのか聞いた。 アキン:僕の一族は、昔、漁師をしていました。カティヤがギリシャへの旅で見かける絵画は、漁師の家族がテーマになっています。愛するものを待つ女性たち――母であったり、娘であったりの姿が描かれている。もし嵐があったら、自分たちの愛しい家族は2度と戻って来ないかもしれない。その絵を見た時の印象で“海”とは“死”の詩的な象徴であると思ったのです。 クルーガー:ファティが言ったことは確かに意識していました。ただ私の中で“海に行く”ことは、心の平静を取り戻すことの象徴でもありました。また、海のさざ波が古いものを洗い流し、新しいものをもたらすことも象徴しているとも思っています。しかし、カティヤを演じるにあたっては、特に海を意識していたわけではありません。ちなみに本編からはカットされましたが、カティヤが海辺を歩くシーン、海の中に入っていくシーンも撮影しています。 理不尽な裁判を経て、母親であるカティヤは、自身のなかでこの事件をどう結論付けるのか? 『女は二度決断する』の決断とはなにかは、ぜひ劇場でご覧いただければと思う。 (取材・文:関口裕子、写真:田村豊)
『女は二度決断する』 4月14日(土)より、ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国ロードショー (C)2017 bombero international GmbH & Co. KG, Macassar Productions, Pathe Production,corazon international GmbH & Co. KG,Warner Bros. Entertainment GmbH