知られていない日本の原爆開発。太平洋戦争中の極秘作戦「ニ号研究」の歴史
2016年5月27日、アメリカのオバマ大統領(当時)が広島を訪問。広島平和記念資料館を視察したほか、原爆死没者慰霊碑に献花をし、第2次世界大戦の犠牲者を追悼しました。また、日本原水爆被害者団体協議会の代表委員とも対面し、抱擁を交わしています。 広島・長崎に原爆を投下した当事者国であるアメリカの大統領が広島を訪問することは異例で、現職のアメリカ大統領が原爆について演説したこと前代未聞です。それだけに、オバマ大統領が広島を訪問したことは全世界が注目した一大ニュースでもありました。2017年には、ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)がノーベル平和賞を受賞するなど、世界で核兵器廃絶の機運が急速に高まっています。 原爆投下は広島が1945(昭和20)年8月6日、長崎が同9日。毎年それぞれの原爆忌には広島・長崎で慰霊と平和祈念のための式典が挙行されています。原爆投下という悲劇が2度と起きないよう、両日は世界が平和と非核化について改めて考える時間でもあり、日本は唯一の被爆国として、アメリカは原爆を投下した当事者国として世界平和に取り組む責務を負っています。
いったん断った原爆の研究・開発
日本は唯一の被爆国です。その一方、太平洋戦争時に原子爆弾の研究・開発を進めていたことはあまり知られていません。大日本帝国が極秘裏に原爆の研究・開発をスタートしたのは、1940年ごろのことでした。それは、陸軍航空技術研究所の安田武雄所長が理化学研究所(理研)の仁科芳雄に原爆の研究・開発を持ち掛けたことから始まります。 理研は、1917(大正6)年に政界・財界・学界の要請で設立された日本初の自然科学の総合研究所です。 「理研は、第一次世界大戦をきっかけに設立されました。大戦の勃発で、それまで海外に頼っていた薬の原材料などが日本に輸入されなくなり、生活や経済に支障をきたしたのです。こうした危機感から、政界や財界、学界などから科学分野を振興する必要性が高まりました。そうした事情もあって、三井や三菱といった当時の大財閥から資金や土地の提供など、潤沢な支援を受けて設立されたのです」と話すのは仁科記念財団で常務理事を務める矢野安重さんです。 研究資金が莫大にあった理研は日本の科学分野をリードする存在で、特に仁科は原子核破壊装置「サイクロトロン」を世界で2番目に完成させるなど、物理学の分野では日本のトップ科学者として知られていました。原爆の研究・開発を持ち掛けた安田と仁科は東京帝国大学の先輩・後輩という間柄で、軍人と科学者という別々の道を進みながらも交流がありました。そうした経緯から、安田は仁科に原爆の研究・開発を打診したのです。 原爆の研究・開発を持ち掛けられた仁科でしたが、その申し出をいったん断ります。このとき、すでにドイツやアメリカが原爆の開発・研究を進めているという噂が仁科のところまで伝わっていました。 アメリカは、当時の金額で約20億ドルもの予算を原爆開発につぎ込んでいます。それでも、仁科はアメリカが原爆を完成させることは技術的に難しいと考えていました。まして、研究開発費が約45億円と少なかった日本がアメリカに先駆けて完成させることは不可能と判断していました。 また、原爆を開発できても、原料になるウランがありません。陸軍は福島県石川町でウランを採掘させていましたが、「原爆に使えるような品質ではなかった」(矢野さん)と言います。そうした事情から、仁科はいったん原爆の研究・開発を断ったのです。