知られていない日本の原爆開発。太平洋戦争中の極秘作戦「ニ号研究」の歴史
「ニ号作戦」は未完のまま終戦。研究者たちのその後
しかし、戦局が悪化した1943年ごろ、事情は一変します。日に日に悪化する戦局を挽回するべく、陸軍は起死回生策として原爆に望みを託そうとしたのです。 再三にわたる陸軍の打診もあり、仁科は原爆の研究・開発を引き受けます。仁科の取り組んだ原爆開発は、仁科のニから「ニ号作戦」という作戦名がつけられました。 「これは私の推測ですが、仁科先生は原爆を完成させることは不可能だと思っていたはずです。それでも原爆の開発を引き受けたのは、理研の優秀な科学者を戦地に送らせないという意図があったからだと思います。原爆開発に取り組むという大義名分があれば、陸軍は無理を言ってきません。優秀な科学者を温存することで、未来の日本の発展につなげる。仁科先生は敗戦後の日本科学界、ひいては日本国全体のことまで考えていたのだと思います」(矢野さん) 実際、陸軍の要請を受けて、仁科が原爆開発に取り組んだ際のプロジェクトチームには湯川秀樹や朝永振一郎といった科学者もいました。彼らは後にノーベル賞を受賞。仁科が想定したように、日本の科学振興や社会の発展に寄与しています。 ニ号作戦は、未完のまま敗戦を迎えました。戦後、GHQ(連合国軍総司令部)によって理研は解散させられています。理研の解散によって科学者や科学の知見が散逸することを危惧した仁科は、製薬会社を設立。科学者を製薬会社で引き受け、科学者たちを研究・開発に専念させました。そして、肺炎や結核の薬としてペニシリンやストレプトマイシンといった抗生物質を一般に普及させ、多くの人たちを救っています。 理研のあった文京区本駒込は緑あふれる住宅街になっています。現在の様子からは、ここで原爆の研究・開発が進められていたことを窺い知ることはできません。 オバマ大統領が広島を訪問してから2年。先人たちの平和への思いを無駄にしないためにも、そして原爆の犠牲になられた人々のためにも、私たちは平和を考え、誓い、追求しつづけていかなければなりません。 小川裕夫=フリーランスライター