祝・ノーベル文学賞。ハン・ガンの世界に触れる珠玉の3冊【石井千湖のブックレビュー】
『少年が来る』
『別れを告げない』のキョンハは、2014年に虐殺に関する本を出してから悪夢を見るようになった。その2014年、ハン・ガンは光州事件を題材にした『少年が来る』を上梓している。光州事件とは、1980年5月18日、軍事政権下の光州で、民主化を求める学生や市民が武力制圧され、160人以上(正確な人数は不明)が死亡したというという事件だ。ハン・ガンは光州で生まれ、9歳のときソウルに引っ越したが、事件は彼女が光州を離れて約4カ月後に起こった。 市民の遺体が一時的に安置された施設で『少年が来る』の幕は開く。トンホという15歳の少年が、はぐれてしまった友達を捜している。トンホは友達と一緒に行った広場で軍人に銃撃されたときのことを回想する。殺された人、生き残った人、遺族。さまざまな視点で、事件当時のこと、その後の出来事が語られていく。作家が自分をまるごと明け渡して、登場人物の声の容れ物になったような書き方だと思う。 トンホと遺体の身元確認作業をしていた女子高校生ウンスクのその後を描いた三章「七つのビンタ」に雪の降る場面がある。小さな出版社で働くウンスクが担当する戯曲集に当局の検閲が入る話だ。戯曲集は大半が黒く塗りつぶされて出版できなくなってしまう。ウンスクが光州事件のことを思い出しつつ、会社に居残っていると、窓の外に白いものが舞い始める。〈雪は挽きたての米粉のように軽くて柔らかそうに見えた。しかしそれが美しいことはもはやあり得ないと彼女は思った〉というくだり。たまたま生き残った罪悪感と、理不尽な暴力が続いていることに対する絶望が伝わってくる。けれども、検閲された戯曲は当局が妨害できない形で上演されるのだ。 ハン・ガン自身を彷彿とさせる作家が語り手になるエピローグ「雪に覆われたランプ」は『別れを告げない』のラストシーンと響き合う。ぜひあわせて読んでほしい。
『すべての、白いものたちの』
ハン・ガンの小説で雪が出てくるといえば、『すべての、白いものたちの』もはずせない。ポーランドの翻訳家に誘われてワルシャワにしばらく滞在した経験をもとに書かれた作品だ。 「私」「彼女」「すべての、白いものたちの」の三部構成になっていて、白いものにまつわる散文詩のような言葉が並ぶ。なぜ白いものについて書いているのかというと、ワルシャワが白い街だからだ。1944年、ヨーロッパの都市で唯一、ナチに抵抗して蜂起したワルシャワは、爆撃によって95%の建物が破壊された。石造りのがれきが白いために、空撮すると都市が雪景色の中にあるように見えたというところが鮮烈だ。 〈私〉はワルシャワに似たある人のことを考える。ある人とは、生まれて2時間しか生きられなかった〈私〉の姉だ。名前に雪の字が入った〈彼女〉。〈私〉は白い街の中に〈彼女〉をよみがえらせる。時空を超えた再生の祈り。手にとりやすい文庫版もいいが、白の多彩さを装幀で表現したハードカバー版もいい。とても静かで美しい本だ。枕元に置いて、少しずつ、繰り返し読みたい。 BY CHIKO ISHII 石井千湖 新著「『積ん読』の本」(主婦の友社)が注目を集めている書評家、ライター。大学卒業後、8年間の書店勤務を経て、書評家、インタビュアーとして活躍中。新聞、週刊誌、ファッション誌や文芸誌への書評寄稿をはじめ、主にYouTubeで発信するオンラインメディア『#ポリタスTV』にて「沈思読考」と題した書評コーナーを担当。ほか著作に『文豪たちの友情』(新潮文庫)、週刊誌の連載をまとめた『名著のツボ 賢人たちが推す! 最強ブックガイド』(文藝春秋)がある。