「夫・三浦友和」と出会って50年…「山口百恵」はなぜ、芸能界に復帰しなかったのか 2人の証言から紐解く
復帰は考えたこともない
東京・高輪の超高級マンションから都下の国立市の1戸建てに引っ越した1988年のころだ。当時、百恵さんは免許取得のために教習所に通っていたが、取材陣と揉み合いが続いたこともある。教習所通いも難しかった。 病弱な百恵さんの母親への直撃取材もあった。業を煮やした三浦が法務省の人権擁護局に訴えに行ったこともある。前代未聞のことだった。 さらに1989年4月、当時4歳だった長男・三浦祐太朗(40)の幼稚園の入園式で、母子は取材陣に取り囲まれる。祐太朗が怯えて泣いたことから、百恵さんは堪えられず、体を張って取材陣を排除した。 三浦家には次男の貴大(38)もいた。百恵さんは2児を守ることに懸命で、芸能界のことを考える余裕はなかったのではないか。 事実、百恵さんは復帰を考えたことが1度もないらしい。三浦は自伝的エッセー『相性』(小学館)にこう書いている。 「取材の方々の中には、『奥さんが芸能界に戻りたいと言ったら、どうしますか?』という質問をされる方もいます。突然言われたら、という仮定の話に答えるのは難しいのですが、重い話ですよね。だってそんな妻の気持ちに30年以上気づいていない自分がいるわけだから。そんな大きな気持ちを心の奥にしまい込んでいた妻に気付いていないのだったら、夫失格でしょう。事実だったら失礼な男です」 三浦家にとって百恵さんの復帰はありえない話だったのだ。 さりとて百恵さんは14歳だった1973年にデビューし、21歳だった1980年には引退した。たった7年半しか活動していない。余計なお世話だが、戦後最大級のスターなのだから、勿体なかった気もする。 そもそも、百恵さんはどうして芸能界入りしたのかというと、歌手への憧れゆえだったらしい。 「幼い少女がお伽噺のヒロインを夢見る、その程度の気持ちだった」(『蒼い時』より)。小学校高学年のときの話である。 一方で百恵さんはこうも書いている。「歌手山口百恵の誕生を語る時、ほとんどの人がひとつの理由として経済的な状況から逃げるためだったのではないかと言う」(同)。芸能界入りの理由の1つが経済的問題であることを否定していない。 百恵さんは母子家庭で、母親は体が弱く、妹もいたため、百恵さんがデビューする前の生活は楽ではなかった。『蒼い時』には苦労の一端が記されている。 百恵さんがデビュー前の中1の夏休みに行った新聞配達のアルバイトのことだ。配達先は約200軒。中学生はバイクが使えないから、きつい。配達には午前4時から同6時過ぎまでかかった。 今も昔もみんなが遊んでいる夏休みに早朝から新聞配達をやる中学生は数少ないはず。百恵さんは歌も演技も評価が高かったが、その骨太の生き方に惹かれるファンも数多かった。 百恵さんはその後も母親を大切にした。ずっと一緒に暮らした。三浦の両親とも同居した。