紫式部と清少納言、どちらがすごい? 比較されるようになったのは… 〝清紫対比論〟とは
「新しい女性像」が登場 比較される紫式部と清少納言
水野:大河ドラマでは、ききょうがまひろの書いた『源氏物語』を読んで「引き込まれました」「『源氏の物語』を恨んでおりますの」と感想を言うシーンがありましたよね。リスナーさんからは「物書きとしての矜持と、それを上回る『私』の感想が感じられました」という感想が寄せられています。 たらればさん:「清少納言による源氏物語の感想」として考えると、すごくよかったし、これしかないな、くらいの描き方だったとも思います。まひろのこと、紫式部自身の人格にはふれずに、源氏物語の作品性を褒めながらも「恨む」という。考え抜かれたセリフですよね。 「作品にはとても引き込まれたが、政治的な立場の違いがあって、わたしはこの物語がもたらした結果を恨む。作者ではなく作品を恨む」、それってつまり「作品として力がある」と認めているわけじゃないですか。考えれば考えるほど、そうとしか言えないよなあ…と。 清少納言は『源氏物語』について、もうちょっと悪く言ってもいいんだぞ、その権利があるぞ、と歯ぎしりしながら見ていました。『紫式部日記』で理不尽な人格批判を書いているのは紫式部ですから(笑)。 水野:そもそもなんですが、清少納言・紫式部はいつごろから比較されていたんでしょうか? たられば:「清紫(せいし)対比論」というのは、研究者や平安ファンがたくさん論じているテーマです。 二人が揃って登場する二次創作の小説やマンガやゲームもたくさんありますよね。歴史をひもとくと、主に古文の注釈などさまざまな文献で、紫式部と清少納言はどちらもすばらしい、平安時代の双璧だ、と言われています。 いっぽう並び立てたうえで「どちらがすばらしいか」という優劣論になったのは150~200年前ぐらいで、作品成立時の千年前から考えると、わりと最近のことです。 これは1993年に出版された宮崎荘平著「清少納言と紫式部」に詳しいんですが、与謝野晶子著『源氏物語』現代語訳が出版されたのが今から120年前ぐらいで、そのあたりに文学界で「新しい女性像」というのが出てきたんですね。 それまで「男性はこうあるべき」、「女性はこうあるべき」というステレオタイプに対して、明治から大正・昭和とジェンダー像が変化していって、「賢い女性とはどんな人か」「働く母とはどういう女性であるべきか」というような「新しい女性像の議論」が出てくるなかで、紫式部と清少納言の人格・性格のありようが「優劣」で対比されるようになってきたんです。 水野:なるほど! 比較に使いやすかったんですね。 たらればさん:御簾の奥に隠れて古き良き価値観を愛し、「漢字の一も書けないふりをする」紫式部と、女性だって男性と対等にやりあい働くべきだし、愚かで浅はかなまま言い寄ってくる男は嘲笑ってもかまわないと指摘する明るく生意気な清少納言、という比較ですね。その頃から、対比だけでなく優劣で語られる論説が増えてきたそうです。 「世界に誇る源氏物語を書いた偉大な紫式部に比べると、軽薄で生意気な清少納言は文章でも数段劣る、間違いも書いている、紫式部自身も日記でそう書いている」と言われるようになっていきます。 水野:わ~……それって、二人がずっと政争の具に使われてしまっているというわけですよね。 たらればさん:その時代その時代の人々にとって都合がいいように解釈されるんですね。