ロールス・ロイス傘下の「ダービー」世代 ベントレー 4 1/4リッター・ヴァンデンプラ(1) 端正なコーチビルド
ベントレーと結びつきの深いヴァンデンプラ
1938年10月には、新しいトランスミッションが登場。ロングレシオのオーバードライブ・トップギアが組まれ、欧州大陸を駆け回る人への訴求力を高めた。ドイツではアウトバーンが、イタリアではアウトストラーダの整備が進められた時代だ。 ヒットラーとムッソリーニが、平和を脅かし始めていた。それでも、高速道路を平穏に巡航できる能力の恩恵に、富裕層は浸ることができた。 コーチビルダーの中で、ダービー・ベントレーとの結びつきの深い名門が、ヴァンデンプラ社。3 1/2リッターや4 1/4リッターのシャシーへ、多くのボディを与えている。だが、パワーアップしステアリングが改善された後期型には、2台しか提供していない。 ベントレーから承認を受けた、デザイン番号は1581。スタイリッシュなドロップヘッドクーペで、第二次大戦前では最後となった、1938年のロンドン・モーターショーに1台目が出展されている。 スーツケースやゴルフクラブを想定した、大きな荷室を確保。運転しやすく、最大限の快適性を与える、2ドアのカブリオレとして発表された。 ウインドウフレームはクロームメッキされ、オープン時に風の巻き込みを低減する機構も装備。ヴァンデンプラ自慢のソフトトップは、後方へきれいに折りたたまれ、ボディへ半分隠れることで美しいシルエットを生み出した。 クローズ時は、テールと滑らかにラインが繋がった。内側には豪華な裏地が張られ、ハードトップへ近い雰囲気を生み出したという。
姉妹的な関係にある2台のドロップヘッドクーペ
ドアには、ウインカーの前身となるセマフォーを内蔵。電動ブラインドがリアウインドウに備わり、ドロップヘッドクーペとしては珍しい装備といえた。サイド後方のクォーターガラスが開く、初の英国車だったとも考えられている。 製造を依頼したのは、ベントレーとロールス・ロイス、アストン マーティンのディーラーをロンドンで営んでいたジャック・オールディング氏。ちなみに彼は、後年にキャタピラー社の土木機械の輸入もしている。 シャシー番号はB42MRで、FLM 21のナンバープレートで登録。ミス・フィリモア氏へ納車されている。 もう1台も、姉妹的な関係といえる、ほぼ同じドロップヘッドクーペ。お披露目されたのは、開戦直前だった1939年のスイス・ジュネーブと、ベルギー・ブリュッセルのモーターショー。シャシー番号はB76MRだった。 展示後、ダービー・ベントレーはCUK 99のナンバープレートを取得。最初のオーナー、グレートブリテン島中部のバーミンガムに住む、フランク・ハワード・ヴォーン氏の元へ1939年6月11日に届けられている。 ボディは、チェスナット・ブラウンの塗装にハニー・ゴールドのストライプで装飾。ダンロピロー社製のシートは、ニジェールグレインのコノリー・レザーで仕立てられた。 オーナーのハワード・ヴォーンは、1960年に命を落とすまで、ダービー・ベントレーを大切に維持した。その時点で20年落ちを過ぎていたが、高性能なことに変わりはなく、1000ポンドで売却されたと考えられている。 この続きは、ベントレー 4 1/4リッター・ヴァンデンプラ(2)にて。
マーティン・バックリー(執筆) マックス・エドレストン(撮影) 中嶋健治(翻訳)