奈緒×木梨憲武『春になったら』は美しい時間をリアルに心に刻んだ
余命3か月の父・雅彦(木梨憲武)と3か月後に結婚式を控える娘・瞳(奈緒)。3月25日に最終話(11話)が放映され、名作となったドラマ『春になったら』(フジテレビ系月曜よる10時~ )を、ライター・釣木文恵がレビュー後編として振り返ります。
ドラマを総括するような 温かい一日
『春になったら』は、最後まで美しいドラマだった。 余命3か月を宣告されて死を受け入れ、「やりたいことリスト」を着実に叶え続けてきた雅彦(木梨憲武)。最初は反対していた娘・瞳(奈緒)の結婚も認め、3月の結婚式への出席を目標に日々を過ごす。日に日に病の進行を体感する雅彦は、周りに見守られながら実演販売の仕事を引退し(8話)、瞳とカズマル(濱田岳)の尽力で小学生のときに埋めたタイムカプセルと再会し(9話)、一度は入院するも、なんとか自宅へと戻って来る(10話)。 そして最終11話。瞳はカズマルとの結婚式を、父と自分たちとの「お別れの式」に変えていた。バージンロードは数え切れないほど通った、家の前の道。招待者は雅彦が病床で書いていた「葬式に呼んでほしい人リスト」の面々。近所の公民館で、彼らを取り巻く面々が温かく見守るなか、雅彦、瞳、カズマルがそれぞれ感謝を伝える。10話かけて丁寧に描かれてきたひとつの家族とその周りの人々の関わり。それがみごとに結実した最高の1日が紡がれた。 現実には本人も周りも、こんななふうに全員が納得して、きれいに死を受け入れることは相当難しいだろう。その意味ではこのドラマはファンタジーと言えるのかもしれない。けれども、このドラマが一貫して描いてきた、生と死の間にある日々の営みの愛おしさは11話を通して幾度も身に迫ってきた。最終話冒頭、まだ余命も結婚も頭にない頃の父娘がただ川沿いの道を家に帰るシーン。その日常の大切さは、彼らを取り囲む景色の美しさとともに心に刻まれた。
木梨憲武がそのまま出た 父親役がもたらしたもの
木梨憲武という人は、落語でいうところの「フラ」(おかしみや愛嬌)のある人だと思う。バラエティの傍ら、映画やドラマでいくつも主演を務め、俳優としてのキャリアを重ねている。けれど、やはりどこか俳優の枠をはみ出した演技をする。とくに今作では木梨自身の「フラ」がそのまま出ていたように見えた。レビュー前編でも書いたように、雅彦という自由を愛する父親は、木梨自身が映し出されたような役柄だった。雅彦の発するセリフには「え~」「あの」といった冗語が挟まれ、言い淀みも繰り返しもあった。表情も振る舞いも、木梨自身そのもののように見える瞬間があった。それがこの、ある種理想を描いたドラマに生々しさと現実感を与えていた。 番組のSNSやプロデューサーのインタビューなどから知らされる撮影風景では、木梨と奈緒がカメラの外でも関係性を紡いでいた様子が伺える。その二人の空気が、ドラマの父娘をより魅力的に見せていた。 11話には「お別れの式」が開催される前、ウエディングドレス姿の瞳が、雅彦の車椅子を押して自分の撮った写真を見せるシーンがある。そこに飾られているのは第1話の初詣から第2話の伊豆、第3話の遊園地……。ここでの二人は役としてだけでなく、本人としてこのドラマの撮影を振り返っていたようにも見えた。 思えばとんねるずというコンビは、表と裏との境目をなくしてきた人たちだった。自分たちの周りにいるスタッフを積極的にテレビやラジオに出演させ、裏も表も丸ごとを見せることで視聴者を楽しませてきた。「内輪ウケ」の「内輪」を日本中に広げた革命児だった。そのマインドが、役者自身のキャラクターや関係性を映し出すという形で、このドラマにも反映されていた……と見るのは、考えすぎだろうか。