「実はオレ、ガンで…」『日曜劇場』大改革を成し遂げたショーケンこと萩原健一。元TBSプロデューサーと交わした最後の別れ
昭和天皇崩御にリクルート事件。様々な現象や事件が、立て続けに昭和の最後に起こりました。そんな歴史の転換期に、「平成」初のテレビドラマ『代議士の妻たち2』をつくったのが、元TBSプロデューサーで現・日本映画テレビプロデューサー協会事務局長の市川哲夫さんです。今回、著書の『証言 TBSドラマ私史: 1978-1993』から、知られざる当時のドラマ制作の裏側を教えていただきました。市川さんいわく、「ある日『厄年』をテーマにすればドラマが出来ると思い立った」そうで――。 【写真】『課長サンの厄年』のスタジオ最終収録が終わり、キャスト・スタッフで記念撮影(1993・9・11 の緑山スタジオ) * * * * * * * ◆日曜劇場 1992年の夏だったが、TBSドラマの看板枠でもあった東芝日曜劇場のリニューアルが囁かれるようになった。93年春から連続ドラマに切り替え、しかも視聴者ターゲットに男性ビジネスマンを取り込みたいとの、大「改革」だった。 秋口に入ると、編成部の近藤邦勝と、制作の先輩プロデューサー・堀川とんこうと「日曜劇場」の連続ドラマ枠について、随時話し合うようになった。堀川が93年4月枠、私が7月枠の担当プロデューサーとなる流れだった。連ドラとなれば、私には4年振りなのでなんとか「成功」させたいと思った。 その時点(92年秋)は、特別企画ドラマ『派閥人事』の制作に取り組んでいた。「経済小説」の名手、清水一行の『頭取の権力』が原作で岩間芳樹が脚本を書いた。幸い、内容的に高評価を受け、月間「ギャラクシー賞」を受けた。 しかし、この手のドラマはスポンサーの東芝は好まない。「日曜劇場」枠拡大で放送された『派閥人事』のスポンサーを降板する一幕があったのだ。いわゆる「社会派」風ドラマは、連ドラの「日曜劇場」では通らないのは明らかだった。
◆厄年 某日、赤坂の書店を渉猟していると『課長の厄年』(かんべむさし・著)という文庫本が目に留まった。タイトルに閃いたのである。これはイケルと思ったのだ。内容はどうあれ、タイトルが「イタダキ」だった。『代議士の妻たち』の時と同じだった。 私の「厄年」は、前年の91年だった。実際、その年にいわゆる「スランプ」状態に陥った。期首の特別企画ドラマが当たらず、連続ドラマの企画を出しても通らない。90年までとは大違いだった。体調面でも、それ迄と違って「無理」が利かなくなった。 同世代なら、皆似たような経験をしているのではないか。よし「厄年」をテーマにすればドラマが出来るぞと思い立った。私自身、「厄」が明けた92年の6月中旬、「副部長」という管理職となった。一般企業なら「課長」である。 10月の終わりに、編成部に正式に企画を提出した。編成部や代理店・電通の感触は良く、準備を進めることになった。脚本は6年振りに布勢博一に依頼、快諾してもらった。このドラマの成否が、主人公の「課長」を誰が演じるかにあるのは明らかだった。 ここで、私は「逆転の発想」をしたのである。いわゆる「らしい」俳優を起用しても、プラスαは望めないだろう。今まで一度も堅気の「課長」役などやったことのない俳優で、「課長」をやらせたら面白そうな俳優はいないかと絞り込んだ。 ちょうど、その頃流れていたショーケンこと萩原健一の「サントリー・モルツ」のTV・CMがちょっと気になった。仕事帰りの中年サラリーマンのショーケンが、ビールを飲み干し、「うまいんだなあ、コレが!」と呟く。この様が、実に良かった。 ショーケンが、主人公「寺田喬課長」の本命となった。
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