人はなぜ神という物語を求めるのか? 小川哲、宗教をテーマとした短編集『スメラミシング』を読んで
小川哲、フルスロットル。短篇六作を収録した『スメラミシング』は、そういいたくなる作品集だ。まず冒頭の「七十人の翻訳者たち」は、物語の敷居が高い。舞台となっているは二つの時代。紀元前二六二年では、七十人の翻訳者が二人一組、三十五組に別れて、ヘブライ語の聖書をギリシア語に翻訳。しかし三十五組の翻訳が、すべて一言一句同じことに、王(ファラオ)が疑問を呈する。もうひとつの時代は二〇三六年。「七十人訳聖書」の物語ゲノム解析に取り組んでいる人物の姿が描かれていく。 うわっ、いきなり「七十人訳聖書」だよ。簡単にいうと、ヘブライ語の聖書をギリシア語に翻訳したものである。ただしこの聖書、いろいろな謎があるのだ。本作は、この謎をSFの手法で解き明かした物語といえる。最後まで読んで、なるほどそういうことかと納得。優れたSF作品である。とはいえ、日本人でキリスト教徒でもない私は、この物語をきちんと理解できたのかどうか自信がない。「七十人訳聖書」なんて知らない、あるいは名前くらいしか聞いたことがないという人は、まずネットで検索して知識を仕入れてから読んだ方が楽しめるはずである。 まあ、本書はどの話から読んでも大丈夫なので、続く「密林の殯」「スメラミシング」から取りかかってもいいだろう。「密林の殯」は、宅配便業者の主人公の、くすんだ日常が描かれていく。嫌われ者の上司はネット右翼。同僚は、その上司を破滅させようというが、どこまで本気か分からない。主人公は他者への関心が薄く、かすかな喜びは、配達を予定どおりにこなすことだ。 読んでいるうちに分かってくるが、主人公は八瀬童子と呼ばれる、天皇の棺を運ぶ一族の末裔である。その立場を嫌って東京に出てきたものの、特にやりたいこともなく、日常に埋没しているのだ。八瀬童子という立場から逃げながら“僕たちは「配達を依頼する神」から「荷物という神」を受け取って、「荷物を受け取る神」に宛てて、「神」を届ける”と思うシーンに、彼の複雑な心境が窺える。天皇が神でなくなっても、神扱いする人はいる。さらに別の神も生まれるのだ。考えさせられる話である。 「スメラミシング」も、深く考えさせられた。ネットで意味不明な発言をするスメラミシング。それを意味の通じる言葉に“翻訳”し、「バラモン」と呼ばれるようになったタキムラ。コロナ禍の下、彼は陰謀論としか思えない主張をする人々に会い話を聞く。そんなタカムラも心に抱えているものがあり、世界を破壊したいと思っていた。 いつの間にかプチ教祖に祭り上げられたスメラミシングだが、タカムラを始めとする「バラモン」の翻訳が、正しいかどうかは分からない。この辺りは、「七十人の翻訳者たち」と響き合う部分だ。また、人はなぜ神という物語を求めるのかという問いは、本書のほとんどの作品に横たわっているテーマである。ならば陰謀論も、それに縋る人にとっては神といえるのか。あれこれ考えているうちに、やるせない気持ちになってしまった。 後半の三作は、すべてSF。「神のついての方程式」は、宗教考古学を専攻した語り手が、ヒンドゥー教シューニャ派、通称「ゼロ・インフィニティ」という、最盛期には一億二千万のほどの信者を抱えていながら消滅した宗教を調べる場面から始める。語り手が発見した資料は、吉竹七菜香という日本人のサイエンスライターが執筆した『神についての方程式』。それは四谷夢玄という元天才理論物理学者が、インドのムンバイ工科大学で行った講義のルポであった。 ということでストーリーのメインは夢玄の講義だが、これが面白い。説明が巧みで、数学と物理学が苦手な私も、なんとかついていくことができた。そしてラスト、話が語り手に戻ると、とんでもない飛躍をする。この飛躍こそ、SFの醍醐味だ。 「啓蒙」は、神が禁忌とされた惑星の真実が、歴史学者のたどり着いた歴史の矛盾から露わになっていく。これも人と神の物語であり、他の作品と響き合う。 ラストの「ちょっとした奇跡」は、おそらく本書で一番分かりやすい内容だ。ある事情で自転が停止した地球。地球上のすべての地点が半年ごとに白夜と極夜を繰り返し、わずかな人類が二つの船で「昼と夜の境目」を移動し続けることで生きている。ただし二つの船は、常に地球の反対側に位置しており、それぞれの船の住人が会うことはない。しかも物資が尽きた時点で、人類は滅亡する。 作者はまったく救いのない設定を創りながら、ボーイ・ミーツ・ガールの物語を実現させる。少年少女の邂逅は甘くなく、だけど温かなものが残る。“ちょっとした奇跡”に救われた気持ちになり、心地よく本を閉じた。うん、やはり私にとっての神とは、面白い物語なのだなあ。だから、小説を読まずにはいられないのだ。
細谷正充