【ここまで変わった古代史】邪馬台国とヤマト政権には天皇の系譜に繋がる関わりがあった!?
古代史最大の謎と言っても過言ではないのが「邪馬台国」だろう。その所在地を巡る論争はもちろん、ヤマト政権との関連についてもさまざまな議論が交わされてきた。従来は関連性はないと思われていたが、研究によって少しずつ古代日本における統治の流れが解き明かされてきた。 従来説:別系統で連続性はない 新説:卑弥呼の王統が、崇神・垂仁の天皇系譜に繋がる可能性を指摘 ■相次ぐ遺跡の発見により所在地論争は近畿が優勢 邪馬台国は古代史最大の謎といってもよいほど魅力的であり、なかでもその所在地をめぐっては百家争鳴といったところであるが、近畿説と北部九州説が有力と思われる。北部九州説では吉野ヶ里遺跡が注目されたが、邪馬台国と時代が少しずれるともいわれている。 近年は近畿説が力を増しているが、その推進力となっているのが纏向遺跡の存在である。2009年に発見された大型建物跡は東西12・4メートル、南北19・2メートルあり、卑弥呼の館かともいわれた。この他、遺構、遺物がみつかっており、都市的な遺跡と考えられている。 付近には卑弥呼の墓とされる箸墓古墳もある。箸墓古墳は、3世紀末の古墳とされていたが、近年は3世紀中ごろの築造ともいわれている。 纏向遺跡を邪馬台国とすると、ヤマト政権との連続性を想定することができるようになる。纏向の地は、「記・紀」の崇神・垂仁・景行の宮の所在地でもあり、卑弥呼の系譜に崇神をはじめとする初期天皇の系譜がつながる可能性もいわれている。 考古学的にも纏向エリアの大型前方後円墳について箸墓古墳を卑弥呼として、西殿塚古墳を台与(とよ)、行燈山古墳を崇神、渋谷向山古墳を景行の陵とする構想もいわれている。 監修・文/瀧音能之 歴史人2022年11月号「日本史の新常識100」より
歴史人編集部