フレディ・マーキュリー、ウォッカの力を借りて挑んだ死の直前のレコーディング…「波乱万丈だし、馬鹿でかい問題も抱えていたけど…」死を受け入れながら過ごした日々
「素晴らしい人生を送ることができて悔いはないよ」
1991年春。もう時間との闘いで、非情な使命を帯びていたクイーンのメンバーたちは、再びスイスのマウンテンスタジオに戻ると、新作アルバム『Made in Heaven』の制作に着手した。 本作はフレディの死後4年経ってからリリースされ、全世界で2000万枚以上の売り上げを記録。クイーンのスタジオアルバムとしては、最大のヒット作となる。 レコーディング中、フレディは力尽きつつあっても、ウォッカの力を借りながら、何とか長時間の過酷な作業に励んだという。メンバーのブライアン・メイは、当時の様子を憶えていた。 「奇跡が起きるだろうと心のどこかで思っていたよ。スタジオにいたみんなが同じ気持ちだったんじゃないかな」 長年にわたってフレディの秘書を務めたピーター ・フリーストーンも、こんな発言を残している。 「辛く悲しい日々だったけれど、フレディは気落ちしていなかった。自分が死ぬんだということを事実として受け入れていた。凄いことだと思う。だけど、年老いたフレディ・マーキュリーなんて想像つくかい?」 1991年6月、クイーンとの仕事を終えた後、フレディはケンジントンの自宅に戻った。 死期が近づくにつれ、フレディの視力は衰え始めた。容体は急速に悪化し、ついにはベッドから出られなくなった。やがてフレディは薬の服用を止め、死と向き合う決断を自ら下した。 最後の週には、フレディの担当医で友人のゴードン・アトキンソン医師が、毎日家に訪れた。 フレディの運転手だったテリー・ギディングスも、雇い主はもう何処へも出かけないと分かっていても、彼の家で毎日待機していた。 メンバーたちもお見舞いに訪れた。死の数日前には、両親と妹、その子供たちがフレディに会いに来た。フレディの部屋で、みんなでお茶をして、穏やかなひとときを過ごしたという。 秘書のピーターは、その時の様子を回想録に記している。 「人並み外れた精神力で、フレディは数時間みんなの相手をすることができた。まだみんなを守ろうとして、何も心配することはないと思い込ませようとしていたんだ」 1991年11月24日の夜、フレディはケンジントンの自宅で死去。45歳という若さだった。 死因はエイズによる気管支肺炎。フレディ・マーキュリーの死を伝える報道は、11月25日の午前中に新聞とテレビによって報じられた。フレディの遺言により、遺体は遺族により火葬されて散骨された。 「波乱万丈だし、馬鹿でかい問題も抱えていたけど、でも素晴らしい人生を送ることができて悔いはないよ。やだなぁ、これじゃエディット・ピアフだね」(フレディ・マーキュリー) 文/佐々木モトアキ 編集/TAP the POP サムネイル/『メイド・イン・ヘヴン [紙ジャケット仕様] [SHM-CD]』(2024年8月21日発売、UNIVERSAL MUSIC) 引用元・参考文献 『フレディ・マーキュリー~孤独な道化~』(レスリー・アン・ジョーンズ(著)岩木貴子(翻訳)/ヤマハミュージックメディア)
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