内野聖陽インタビュー!緻密な役作りで松尾芭蕉の人生を生きる
井上ひさしが松尾芭蕉の人生を描いた『芭蕉通夜舟』は、一人語りを中心に歌仙の三十六句になぞらえて全三十六景で構成された井上評伝劇の傑作である。初演の小沢昭一、再演の十世坂東三津五郎に続き、この難役に内野聖陽が挑む。どんな課題に直面しているのか、その心情に迫る。 内野聖陽さんの写真をもっと見る
松尾芭蕉の知られざる一面を描く
(前編から続く) ――徹底した役作りのために行動に移すその真摯な姿に、内野版の芭蕉像への期待が高まる。さらに台本を読み込んでいる彼は、井上ひさしの視点から見た芭蕉についても言及した。 内野 僕のイメージでは、松尾芭蕉という人は、侘び寂びの風雅の極みを目指し、物質的に貧しければ貧しいほど豊かになるという考えが根底にあって、ストイックで厳格な方。ところが井上ひさし先生が描写する芭蕉には、とても人間味があります。歴史的な偉人は語り継がれるうちに神格化されていく面がどうしてもありますが、井上先生の“そうじゃないでしょう”という視点が結構あって、例えばお便所でのシーンが随所にちりばめられていたり…。男女の睦みごとに無関心ではない微笑ましい様子が描かれていたりと、かなり、おちゃめな人間像に見えてきます。僕自身も、そんな身近な芭蕉さんを深めたくて、いろいろと資料を読んでいくと、まったく女性に興味がなかったわけではないことを知りました。風光明媚な松島を美しい女性に喩えたり、象潟(きさかた)の美景を中国の西施(せいし)という女性に喩えて「象潟や雨に西施がねぶの花」という句を詠んでいたり。もっと人間くさい人なのではないかということが自分の中にあって、そういうところを下品にならないように表現できたらいいなと考えています。 ――内野の芭蕉への探求が深まっていくにつれて、作品の核心へと近づいていく。 内野 僕自身が芭蕉さんを演じる上で最も大事にしたいのは、俳人としての人生が言葉遊びから始まって、芸術のレベルまで高めたということ。そこが一番大事になってくるのだろうと考えています。その人生をどれだけ生々しく表現できるか。三十六景の中で芭蕉の吐息を説得力をもって描けたらいいなと、今の時点では思っています。俳諧宗匠としていつも高みに立った自分に嫌気がさして、一人になって旅に出てしまうみたいな現状破壊の衝動は、実際に俳優をやっている僕たちにもありますし、芭蕉さんのそうした生き様と自分がリンクしている部分を探していこうと思っています。 では、これからどうやって芭蕉さんに近づいていくか。今は、自分なりに面白がれる所をたくさん発見することかなと思っています。“そうは言っても違うよね?”というちょっと意地悪な目線も大事にして。例えば一人旅といってもいつも弟子がいたり、行く先々でご馳走になったりして、まんざら寂しい旅ではなかったのではないかと思える節があったり…。時間の許す限り、松尾芭蕉を多面的に見て、自分なりの感性と遊び心で、実はこうだったんじゃないかということも含め、ふくよかな人物像になったらいいと思っています。