もうやめて!人生に意味を求めるのは…自分の人生を棒に振らないための必須マインドとは?
人生に意味はないと言うと怒る人がいるのは承知している。私の人生には意味があると信じている人が多いからだろう。 しかし、個々の人が自分の人生に意味があると思っているからといって、人生一般に意味があるとは限らない。この2つは別の事柄だからだ。(「私が『人生に意味はない』と考えたわけーーまえがきに代えて」より) 生物学者である『人生に「意味」なんかいらない』(池田清彦 著、フォレスト出版)の著者は、このように述べています。「指示対象(たとえばイヌやネコなど、コミュニケーションに用いられる“記号”)を持つコトバに慣れ親しんでいる人は、少なからぬ確率で、コトバはなんであれ、誰にとってもほぼ同じ意味を持つという幻想にとらわれてしまう」とも。 ところが「人生」ということばは“指し示す具体的な対象”を持たないので、このことばを聞いたとき頭に思い浮かべる想念は人それぞれ異なるはず。にもかかわらず「ことばはなんらかの対象を指し示すはずだ」と信じていると、「人生」はある同一性を孕んだ概念を意味するに違いないというドクサ(臆見=根拠のない、推測に基づいた考え)にとらわれてしまうというのです。 とはいえ、なにを「人生の意味」と考えるかが人によって違う以上、「人生の意味」もまた千差万別。したがって、不変で普遍な人生の意味なんてないわけです。 「人生の意味」は世間に流通する物語であって、生きる方便として適当に利用するのは、別に悪いことではないけれども、マジに信じるとろくなことにはならない。 (「私が『人生に意味はない』と考えたわけーーまえがきに代えて」より) こうした考え方を念頭に置いたうえで、きょうは第4章「『無意味』への恐怖を克服しよう」に焦点を当ててみたいと思います。
人間は意味のわからないものを恐れる
人間はあらゆるものに意味を見出そうとしますが、おそらくそれは「意味がわからないものに対する恐怖心」が関係しているのではないかと著者は考えているそうです。たとえばムカデやナメクジなど、「なにを考えているのかわからない生き物」に本能的な恐怖を感じるのも、その存在が自分の理解を超えているから。 人間は、何か自分達の理解を超えたものと相対したときに、その意味を理解することで安心しようとする。(中略) 人間にとって、見知らぬもの、理解できぬものは、恐怖と不安を与える存在なのだ。そこに何らかの意味をつけて少しでも恐怖と不安をやわらげたい。この志向こそが、宗教を生み、科学を発展させたのだ。(182~183ページより) ただし、そうはいっても多くの人にとって、すべての存在物に合理的な意味を見出すことは困難でもあります。 生理的に気持ち悪く、嫌いなものがあるのは普通のことだからです(それは、理解できないものに恐怖した原始人の感性が残っているからだろうと著者はいいます)。(182ページより)