男性遍歴多い「紫式部の娘」が最後に選んだ人生の伴侶。母親とはまるで性格が真逆、長寿を全うした大弐三位
そのことから、おそらく後半は「これから宮仕えをする特定の人物」に向けて書かれたのではないか、とも言われている。それは、娘の賢子(大弐三位)である。 式部が出仕した頃、まだ6歳前後だった幼い娘の賢子が、どのように過ごしていたのか。その足取りはよくわかっていない。ただ、『紫式部日記』が書かれたのは、賢子が10歳を超えた頃のこと。タイミング的にも、将来を見据えた母が、娘のために書いた可能性はありそうだ。
賢子が14~15歳頃に母の式部は他界(式部の没年については諸説あり)。長和6(1017)年、賢子は母の跡を継ぐように、彰子のもとに、女房として出仕する。式部の存命中から、賢子は彰子のもとに出入りしていた。彰子としても、よく知る式部の娘ならば、と考えたのだろう。 だが、実際に賢子が出仕すると、彰子は「さすが式部の娘!」と感心したり、「本当に式部の娘なの……?」と戸惑ったりと、両極端の感想を日々持ったのではないだろうか。
賢子は母の式部と同じく和歌の才を発揮しながら、その性格は引っ込み思案だった母とは異なり、明るく情熱的な女性だった。 ■貴公子たちの心をつかんだ賢子の才覚 のちに「大弐三位」として知られる、式部の娘・賢子は、ほとばしるパッションを隠すことなく、恋愛経験も豊富だった。 藤原公任の息子・権中納言の藤原定頼から、こんな歌が贈られたこともある。 「こぬ人に よそへて見つる 梅の花 散りなむのちの 慰めぞなき」
(いつまで待っても来ない人を思って梅を眺めていました。花が散ったあとには慰めとするものがありません) 賢子を思う定頼の切ない思いが伝わってくる。だが、当人からすれば、とても素直には受け取れなかったようだ。賢子はこんな歌で返している。 「春ごとに 心をしむる 花の枝に たがなほざりの 袖かふれつる」 意味としては「春が来るたびに私が深く思う梅の枝に、どなたか気まぐれな袖を触れさせて、その移り香を移されたのでしょう」。