選んだのは1軍よりも2軍 熟考の末に“固辞”した入閣オファー…恩人に伝えた「帰ります」
味方の守備の間にデータ分析、資料作り…「間に合わないんですよ」
それはハンパではない激務でもあった。「ノムさんには『俺のそばに(打者のデータなどを)まとめたヤツを置いといてくれ、とにかく俺がさっと見て、すぐわかるようにしてくれ』って言われました。だからでかいのを作りましたよ。1番・飯田(哲也)なら、飯田の4打席をずらーっと。1球目からの球種とかもね。全選手分ね」。試合前までに、そのデータを使って分析もするわけだが、それだけでは終わらない。 試合中の結果もどんどん書き込んでいかなければいけない。「あの頃はスコアラーからの(試合中の)チャートのベンチ送りがOKだったですからね。次のイニングまでに前のイニングのヤクルトの選手のチャートをまとめたヤツをノムさんの横に置かなければいけないんです。それはヤクルトの守備の時に作るんですよ。『守っている時、バッティングコーチは用事あらへんやろ』って言われてね」。 そんな作業を正確かつ丁寧に行わなければいけない。「でもね、(ヤクルトが)1イニングで10人攻撃とかすると、守っている時間だけでは次のイニングに(データ作りが)間に合わないんですよ。それでもノムさんは『おい、まだかぁ』とか言うんでね。まぁ、大変でしたね。4色のボールペンで1球ずつ色分けしてね。真っすぐは黒、スライダー、カーブは赤、ブルーは特殊球、チェンジアップとかフォークにして、緑がシュート。それをずっとね……」。 伊勢氏は野村監督の下で1990年から1995年までの6年間、打撃コーチを務めた。その間に作り上げたデータ量は莫大なものになっており、その経験は指導者人生において大きなプラスにもなった。「広島をやめる時、若松に誘われていなかったら、私はデータ収集やまとめ方も何も勉強せんままに終わったんでしょうねぇ……」。伊勢氏はハードだった日々を懐かしみながら、笑みを浮かべた。
山口真司 / Shinji Yamaguchi