観察映画が体現する「よく観る」ことの大切さとは? 想田和弘監督最新作、映画『五香宮の猫』考察&評価レビュー
撮られる側と撮る側の微笑ましい距離感
「五香宮の猫」というタイトル以外、何の前情報も入れずに鑑賞した私も最初は掴み所のないままロッククライミングをしているような、ミステリートレインにでも乗っているような気分だった。それでもスクリーンに映し出される瀬戸内海の穏やかな海。美しい自然。漁師町で生きる猫たち。旅情溢れる光景に心癒やされているうちにその向こうに見えてくるこの町の混沌にフォーカスが合ってくる。 牛窓の路上に生きる猫たちに癒やしを求めて餌やりなどに訪れる人々。一方で住民からは糞尿に対する苦情もある。猫があまり好きではない住民もいれば、繁殖力の高さから数が増え過ぎるのは困るという住民もいる。町内会で対策を話し合う様子。共生策としてTNR(不妊去勢手術を行った上で元の場所に戻す)を実施する為の捕獲活動が繰り広げられていく。 プロデューサーの柏木さんも住民のひとりとして捕獲に関わっていく。想田さんは夫として寄り添いながら、同時に監督としてカメラを向け続ける。文化人類学における参与観察。映画を撮る側の二人も観察の対象として作品の中に取り込まれていく。住民から「これ映画になるの?」という雑談交じりのやりとりもそのまま作品に残っているのが撮られる側と撮る側の微笑ましい距離感を象徴している。
"暴こう"という意図とは無縁のやさしい眼差し
被写体との絶妙な距離の取り方に何度も感嘆の声が漏れる。つかず離れず。離れ過ぎず踏み込み過ぎず。何よりそのやさしい眼差しにドキュメンタリー映画に対する固定観念が良い意味で裏切られる。撮ることの暴力性を露呈させる"暴こう"という意図が微塵もない。 伝えたいことを伝える為に仮説を立て証拠を集めて証明しようとするドキュメンタリーのように「これを撮らなければ」という強迫観念がないせいなのか。観ていてまるでストレスを感じない。ドキュメンタリーにありがちな撮られたくない人にカメラを向けて一緒になって暴いているような罪悪感を感じないのだ。 そのやさしい眼差しは想田監督が愛する猫たちにも同じように注がれている。猫も人間と同じように「個」として観察されている。人間がいろいろなら、猫にもいろんな「個」がいることがわかってくる。人懐っこい奴。人間とは一定の距離を置いている奴。食いしん坊な奴。人間に喜怒哀楽があるように、猫たちもまたカメラの前で多様な表情を見せてくれる。 目を引かれたのは民家に入り込んで居座ろうとした猫だ。家主が「おんもいこうね」と猫撫で声で追いやろうとするがそれでも土間に居座ろうとする。その短いシーンが本来猫は家の中で人間と共存していた生き物だったことを思い出させてくれる。 家猫と人間の歴史は世界では9500年前、日本でも2000年前の弥生時代まで遡る。猫は鼠などの害獣を駆除し穀物を守ってくれる家畜だった。野生のヤマネコと違ってずっと家の中で暮らしてきた。すなわち野良猫というのは人間社会におけるホームレスと同じなのだ、と。 そう、眼差しはやさしいが良い部分ばかり撮っているわけでもない。想田監督のカメラは人間の無自覚な原罪のような部分も真摯に映し出している。かといってその罪をクローズアップして責めるような無粋なこともしない。あくまでそこにある風景の一部のように捉えているように私には感じられた。