メタバースは人間をいかに創り変える? 稲見昌彦×バーチャル美少女ねむが考える「身体」と“アフターメタバース”の行方
2023年。すでに全世界で数百万人もの人々がオンラインの3次元仮想世界「メタバース」に没入し、そこで人生を過ごしている。かつてSF作品で“フィクション”として描かれた仮想空間での生活が今まさに新たな“リアル”になる。その瀬戸際に私たち人類は立っているといえるだろう。 【画像】「自在化身体プロジェクト」が手がける『自在肢』 しかし、一方でメタバースはあまりにも発展途上で、それが私たちに何をもたらすのか、まだまだ未知数なのが実情だ。さらに現在、AI・Web3・クリエイターエコノミーなど、新たなテクノロジーの潮流が続々と生まれつつある。 本特集では、実際にメタバースに生きる“メタバース原住民”である「バーチャル美少女ねむ」が、各種先端分野の有識者との対談を通じて、メタバースとテクノロジーがもたらす人類の進化の“その先”に迫っていく。 第2回のテーマは「身体×メタバース」。ゲストには、VR技術などを活用して先進的な「身体情報学」の研究を展開してきた東京大学先端科学技術研究センターの稲見昌彦教授をお招きした。メタバースにおいて私たち人間の身体感覚やコミュニケーション、価値観はどのように変容するのか。それがメタバースにフィードバックされることで、何が起きるのか。「身体性」を切り口に、アフターメタバースの行方を考える。 ■バーチャル美少女ねむ メタバース原住民にしてメタバース文化エバンジェリスト。「バーチャルでなりたい自分になる」をテーマに2017年から美少女アイドルとして活動している自称・世界最古の個人系VTuber(バーチャルYouTuber)。2020年にはNHKのテレビ番組に出演し、お茶の間に「バ美肉(バーチャル美少女受肉)」の衝撃を届けた。ボイスチェンジャーの利用を公言しているにも関わらずオリジナル曲『ココロコスプレ』で歌手デビュー。作家としても活動し、著書に小説『仮想美少女シンギュラリティ』、メタバース解説本『メタバース進化論』(技術評論社) がある。フランス日刊紙「リベラシオン」・朝日新聞・日本経済新聞などインタビュー掲載歴多数。VRの未来を届けるHTC公式の初代「VIVEアンバサダー」にも任命されている。 ■稲見昌彦 東京大学大学院工学系研究科博士課程修了 博士(工学)。電気通信大学、慶應義塾大学等を経て2016年より現職。自在化技術、人間拡張工学、エンタテインメント工学に興味を持つ。米TIME誌Coolest Invention of the Year、文部科学大臣表彰若手科学者賞などを受賞。超人スポーツ協会共同代表、情報処理学会理事、日本バーチャルリアリティ学会理事、日本学術会議連携会員等を兼務。2023年には世界初のメタバースシンクタンク「 Metaverse Japan Lab 」ラボ長にも就任。著書に『スーパーヒューマン誕生!人間はSFを超える』(NHK出版新書)、『自在化身体論』(NTS)ほか。 ■メタバース原住民は、デジタルサイボーグか? バーチャル美少女ねむ(以下、ねむ):メタバースの定義は識者によってさまざまですが、私自身はその必須要件のひとつに「VRによる没入性」を挙げています。メタバースをひとつの世界だと感じるには、アバターを自分の生身の身体のように捉える感覚が重要だと考えるからです。 一方で稲見先生は、VR空間における身体性にも注目しながら「自在化身体プロジェクト」という研究に取り組まれています。今日は「身体性」を切り口に、稲見先生とメタバースについて考えを深めていければと思うのですが、まずは読者のみなさんと目線を揃えるために、「自在化身体プロジェクト」について簡単にご説明をお願いできますか? 稲見昌彦(以下、稲見):わかりました。まず大前提としてあるのは、私たちは自分自身の身体を自在に扱えるわけではない、という認識です。だからこそアスリートは血の滲むような練習に励むわけですが、私たちはテクノロジーの力でそれを実現しようと考えました。自在化身体プロジェクトでは、VRやロボット技術を用いて人間の能力を拡張する「自在化技術」の開発と、自在化した身体による認知の変容の解析を目指しています。 ねむ:つまりVR空間のなかでアバターを自由に操ることができるメタバースも、自在化技術のひとつだと言えるわけですね。稲見先生は自在化技術によって人間以上の能力を獲得した存在を「デジタルサイボーグ」と名付けていますが、実際にメタバースを活用すれば現実世界でのさまざまな身体的制約を乗り越えることができます。そういう意味では私のようにメタバースにどっぷりと浸かった「メタバース原住民」は、すでにデジタルサイボーグ化しつつある、とは言えませんか? 稲見:ねむさんのようにアバターを自由自在に操っている人は、もうかなりのところまでデジタルサイボーグ化していると思います。あとはその力をいかに使いこなすかですね。そう遠くない未来に、デジタルサイボーグはゴースト※のレベルでVR空間=環境そのものと融合し、それを自由に操れるようになると考えています。 ※士郎正宗の漫画『攻殻機動隊』及びその映像化作品でも用いられる用語で、人間にのみ存在するとされる、人間と機械を隔てるもの。人間の自我や、意識、霊魂などを指して用いる。 ■メタバースにおいては、世界そのものが私たちの身体となる ねむ:ゴーストのレベルでの環境との融合というと、具体的にはどんなイメージでしょうか? 稲見:たとえば、ねむさんの感情がそのままメタバース空間内の天候に反映されて、悲しいときには雨が降る、とか。それはちょっとベタな演出かもしれませんが(笑)。 あるいは、現時点でもメタバースでは現実空間よりもはるかに自由にオブジェクトをつくることができますが、そこにはまだ「制作」というプロセスがあります。それがもっとインタラクティブに「ここにこんなモノがあったらいいな」と想像するだけで、思い通りのオブジェクトを出現させられるようになる、といったことも考えられます。脳内で想起したイメージや情報を解読するブレイン・デコーディングの技術も進歩してきているので、いずれ実装されてもおかしくない機能です。 ねむ:「想像」と「創造」がインタラクティブにつながるわけですね。 稲見:まさに。そして環境との融合が進めば、私たちはVR空間そのものを「拡張された身体」と感じるようになるはずです。 ねむ:先生は著書『自在化身体論』の中で、哲学者のダニエル・デネットの「“私”とは、自分が直接制御できるすべてのものである」という言葉を引きつつ、人の身体感覚は生身の肉体を超えて、自分が操作できる領域全体に拡がっていく、と説明されていました。 その箇所を読んで最初に思い浮かんだのが、いくつかのメタバースで実装されている「ビームUI」です。遠方のオブジェクトを指先から出たビームで指定して操作する機能で、これを使えばワールド内に存在するものは何でも、それが「太陽」であっても自在に動かしたりできます。言ってみれば、視界に存在するものは何であれ、掴んで動かすことができるわけです。慣れるとすごく便利だし、ちょっとした全能感を得られるというか、たしかに「世界とインタラクティブにつながっている」という手応えを感じられる機能です。 稲見:どうやら私たちは、身体感覚の拡張そのものに快感を覚えるようですね。かつてマジックハンドというおもちゃが流行りましたが、あれもやはり「遠くまで手が届く」「遠くのものが動かせる」というところに根源的な楽しさがあるわけです。そのあたりも、私たちが身体と環境との融合を志向する理由のひとつかもしれません。 ■AIとの融合によって、あらゆる対人関係が瞬時に最適化される ねむ:もうひとつ、メタバースで暮らしていて「これは現実より便利だな」と思うのが、名前の表示機能です。アバターの頭の上に「ネームタグ」として常にその人の名前が表示されているので、そもそも「人の名前を覚える」という概念が消失しているんですよね。私は人の名前や顔を覚えるのが苦手なので、すごく重宝しています。これはある種の記憶の外部化、つまり脳と機械の融合とは言えないでしょうか? 稲見:それでいうと、私たちはもっと身近なところで同様の経験をしています。いまやパソコンやスマートフォンに当たり前のように搭載されている漢字かな変換機能です。あれはまさに漢字についての記憶の外部化にほかなりません。ここで面白いのは、「自分は機械の支援を受けて文章を書いている」とは、もはや誰も感じていないということです。 ねむ:言われてみると……。もはや漢字かな変換を「機能」としても捉えていないというか、はじめから自分に備わっていた能力の一部のように感じていたかもしれません。 稲見:それはまさに私たちが自在化技術で目指す「人機一体」の理想的なあり方です。その点、いま流行りの生成AI技術は、他者としてのニュアンスが強い。AIをバーチャルアシスタントとして捉えるならそれは当然でもあるのですが、ほとんど無意識に機能する「自己拡張としてAI」という方向性もあっていいと思います。 ねむ:人とAIの融合が進むと、メタバースではどんな変化がありそうでしょうか? 稲見:まず変化が予想されるのは、コミュニケーションの領域です。近年、リアルタイム翻訳の技術開発が急速に進歩していますが、いずれメタバース上での会話は、ニュアンスや言葉遣いまでリアルタイムで翻訳可能になるでしょう。たとえば私が学生に「このままじゃ卒業できないぞ!」と言ったとします。すると学生側のAIが瞬時にそれを翻訳して、彼が耳にするのは「いつも頑張っているけれど、研究の進捗がすこしだけ心配だね。なにか困ったことがあったらいつでも相談してね!」という言葉になっている、とか(笑)。 ねむ:たしかにAIはそういうのが得意そうですね。いまでもChatGPTに「もっとマイルドに伝えてください」とプロンプトで指示をしたりしますし。AIを用いて「見たくないもの・聴きたくないこと」を遮るバリアを張るようなイメージでしょうか。 稲見:反対に自分が不適切な発言をしないように、AIを用いて言葉にフィルターをかけることもできるはずです。そうすれば、部下を怒鳴りつけてパワハラで訴えられてしまった、といったトラブルも減らせるでしょう。つまりAIによるコミュニケーション支援の全面化は、私たちを感情労働から解放してくれるのです。少なくともメタバースのなかであれば、見た目も、言葉遣いも、態度も、TPOに合わせて常に最適なものをAIが選んでくれるようになるのですから。 ■「人間」というシステムのAPIキーが公開されつつある? ねむ:そこまで行ったら、自分の人格がAIに塗りつぶされてしまいそうな気もしませんか? 稲見:AIを介さず、生のコミュニケーションを取りたいときはそうすればいいと思います。けれど、どうしても対人関係がうまくいかないという人が、AIによる支援を受けることは、決して悪いことではないと思うんです。 ねむ:デジタルサイボーグ化が進めば、コミュニケーションも円滑になる、と。 稲見:そういうとちょっと語弊もありそうですが(笑)。でも喧嘩の仲裁するときって、誰かが第三者として間に立って「あいつも悪気があったわけじゃなくて……」と、お互いの言葉を翻訳してあげますよね。その第三者が人からAIに代わっただけ、とも言えるはずです。 それに私は人間にもAPIってあると思うんです。「やる気を出してほしいときは、こういう言葉をかけるとよい」といったように、これまで暗黙知で理解されていたことが、AIによって分析されつつある。つまり人間のAPIキーが、ついに公開されようとしているんです。だからこれから、特に人間の行動をデータとして扱えるメタバースにおいては、私たちの感情やコミュニケーションに、AIがよりダイレクトに介入してくるようになると思います。 ねむ:そのデメリットはありませんか? たとえば私は長時間メタバースで過ごしたあと、現実世界でつい飲み物の入ったコップを空中に置こうとしてこぼしそうになったことがありました。同じように、AIを使ったメタバースでのコミュニケーションが当たり前になってしまうと、リアルでのコミュニケーションに支障が出たりはしないでしょうか? 稲見:そういう懸念も当然あると思います。けれど、それはほかの多くの道具についても言えることですよ。漢字かな変換を使っていると漢字を書く力は衰えるし、冷房が当たり前になってしまうと夏の暑さには耐えられなくなってしまう。一方で、道具のなかにはダンベルのように使えば使うほど、人間本来の能力を高めてくれる道具もある。私はAIをダンベルのように、人を鍛えるために使うことも可能だと思っています。 ねむ:大切なのはAIをどう使うかということで、弊害はそれほど恐れなくていい、と。 稲見:すでに多くの人が指摘していますが、テクノロジーの話と“しつけ”の話を同じ水準でするべきではありません。技術は技術であり、生身の人間としての能力や感性を伸ばしたいのであれば、そのための時間や機会を設ければいい。そこはしっかりと分けて考えるべきだと思います。 ■「私」という世界そのものに、他者を招き入れる ねむ:先生はメタバースの今後をどのように考えていますか? 稲見:抽象的な言い方になりますが、それぞれのユーザーと一体化した主観的な世界(バース)を、主観的なままいかに他者と共有していくか、ということが重要になると感じています。自分の世界と、他者の世界との交差点をどうつくるか。そこがひとつのポイントだと思いますね。ねむさんが「想像と創造をインタラクティブにつなげる」とおっしゃいましたが、まさに想像を世界創造を介して他者と接続可能な表現メディアやコミュニケーションメディアとしてのメタバースです。 メタバースではその気になれば、NPCに囲まれた自分だけの心地よい世界もつくれてしまいます。極端な話、死ぬまでそこに引きこもっていることもできる。しかし、だからこそ逆説的に、メタバースの普及は「人間にはどんな価値があるのか?」ということを、考え直す契機になるのではないでしょうか。 ねむ:世界と世界が交差する、というのはたとえばどんなイメージでしょうか? 稲見:他人の夢の世界に飛び込んでいく『インターセプション』という映画がありましたが、あんな感じでしょうか。各人のアイデンティティや創造性をそのまま反映したメタバースのなかに、他者をアバターとして招き入れることで、互いの人となりに文字通り直接触れていく。そんなコミュニケーションのスタイルも生まれるかもしれません。 ねむ:めちゃくちゃ壮大な話ですね……! 自分という世界を介してのコミュニケーション、か。メタバースの新たな可能性が垣間見えた気がします。 稲見:ねむさんはどう思いますか? メタバースが普及していくことで、「メタバース原住民」のみなさんが築いてきた秩序が崩れてしまうのではないか、といった危惧はありませんか? ねむ:そういった意見の人も多いですね。ただ私自身は、メタバース内での経済活動がもっと活発化してほしいので、メタバース人口が増えることには賛成です。やっぱり人がいないと経済は回らない。お金の話をすると嫌がる人もいますが、メタバースを単なるゲームではない、本当の意味で「そこで人生を送ることのできる」もうひとつの世界にしたいのであれば、経済の話も避けて通れないと考えてます。 稲見:「お金」という言葉に反発を覚える人には「価値交換」という言い方をしてあげるといいかもしれません。現実の世界では、貨幣という形での価値の交換形態が幅を利かせていますが、それは貨幣が計量可能だからです。けれど私たちはボランティアであったり、プレゼントのような純粋な贈与であったり、実際にはもっとさまざまなかたちで価値を交換し合っています。あらゆる行動を計量可能なデータとして扱うことのできるメタバースであれば、現実よりもずっと豊かで多様な価値交換が可能になると思うんです。 だからこそ「メタバース内にデジタル看板をつくって、広告出稿を募ります」といった、現実世界のビジネスをそのまま踏襲した安易なプロジェクトを目にすると、ガッカリしてしまいます。どうせやるなら、メタバースという新たな世界をテコにして、価値体系そのものを大胆にトランスフォーメーションしてほしい。それがメタバースに対する一番の期待かもしれません。 ねむ:身体感覚が変化すれば、価値体系も必ず変化しますよね。先生のお話を伺っていて、これからさらに大きな変化を迎えるであろうメタバースに、いまこのタイミングで関われていることが嬉しくなってきました。本日はどうもありがとうございました!
文・取材=福地敦