「本質はUWFにある!」 ジョシュ・バーネットがひも解く日本総合格闘技の源流
それからジョシュのUWFを巡る旅が始まった。のちにUWFインターナショナルの論文をネット上に発表するなど、その熱量は世界一と表現してもオーバーではあるまい。すでにこの世からUWFの冠のついた団体は消滅していたが、インターネットの時代になりつつあったことも、UWFについての情報収集の助けになった。 UWFインターと出会う1年前、97年にジョシュは19歳で総合格闘家としてデビューしている。最初に師事したマット・ヒュームは、新生UWFから分裂したプロフェッショナルレスリング藤原組から独立したパンクラスの黎明期にレギュラー参戦していた。このこともジョシュとUWFとの距離を縮めた。 「ヒュームは船木誠勝さんや鈴木みのるさんの教えを受けていたからね」 ■「打倒グレイシー」を果たしたプロレスラー その後ジョシュは、93年6月に修斗初の日米国際戦で勝利を収めているエリック・パーソンにも教えを乞う。エリックはUSA修斗を設立した中村頼永氏の弟子だったので、初代タイガーマスクこと佐山聡氏が設立した修斗との結びつきもできた。 「佐山さんはカール・ゴッチの教えも受けていたので、その流れも汲(く)むことができた」 日本の総合格闘技の源流はオープンフィンガーグローブを独自に考案し、リアルファイトを貫いた修斗といわれている。その一方で、新日本プロレスから派生したUWFは分裂を繰り返すうちに、過激なプロレスから総合格闘技の流れに合流していく。95年から2000年にかけ、山本宣久、高田、船木といったUWF系のプロレスラーがヒクソン・グレイシーの牙城に次々に挑んだことは時代の必然だったろう。 日本の総合格闘技の創成期、合言葉は「打倒グレイシー」だった。それほどまでに94年にスタートした『バーリ・トゥード・ジャパン・オープン』で2年連続優勝を果たしたヒクソンと、彼の登場とともに日本で初披露されたバーリ・トゥード(ポルトガル語で「何でもあり」)のインパクトは強かった。 そうした中、日本人選手として初めて打倒グレイシーを果たしたのは生粋の総合格闘家ではなく、元UWFインターの桜庭和志だった。99年11月、当時「IQファイター」と称され、オリジナリティに溢れたムーブと闘争本能を持ち合わせていた桜庭は、グレイシーの最強幻想に惑わされることなく、ヒクソンの実弟であるホイラー・グレイシーをレフェリーストップで破った。 この少し前までUWFインターの前座を賑わせていた男が、総合格闘技の第一線で通用するだけの実力を蓄えることができたのは、道場で実力者として知られていた安生洋二や金原弘光らとしのぎを削っていたからだろう。ジョシュの史観では佐山氏も旧UWFにいた時期があったので、日本の総合格闘技の歴史はUWFから、もっといえばUWFを作る源となった新日本プロレスの道場から始まったと捉(とら)えている。