『十一人の賊軍』アンチ・ヒーローたちのサバイバル・ドラマ、幕末のスーサイド・スクワッド ※注!ネタバレ含みます
現代に蘇った東映集団抗争時代劇
『十一人の賊軍』は、いわゆる東映集団抗争時代劇の系譜に連なる作品だ。主人公がたった一人でバッタバッタと敵を倒していく古色蒼然なチャンバラではなく、集団と集団が激突して死闘を繰り広げる、リアリズムを重視した作風。 例えば長谷川安人監督の『十七人の忍者』(63)では、駿府城に潜入しようとする伊賀忍者たちと、それを防ごうとする根来衆忍者との攻防戦が描かれていたし、工藤栄一監督の『十三人の刺客』(63)や『十一人の侍』(67)では、暴君の首を狙う浪人たちとそれを阻止しようとする侍たちの戦いが描かれていた。 「語呂がいいのでつい正義と悪と括ってしまいがちですが、実のところ悪は存在していなくて、あるのは正義ともうひとつの正義だと思うんです」(*1) と白石和彌は語る。確かにスクリーンに登場するのは、己の信じる正義のため、組織のため、命を投げ打って戦う男たち。東映集団抗争時代劇とは、正義と正義がぶつかる戦闘ドラマなのだ。だからこそ、ミッションが起動した瞬間から彼らは命を賭して戦い、華々しく散っていくのである。 だが『十一人の賊軍』に登場する罪人たちには、信じる正義も、守るべき組織もない。死罪を言い渡された者たちが、「砦を守り抜けば無罪放免」という言葉を信じて、目の前の敵を倒すだけ。死ぬために戦うのではなく、生きるために戦う。これまでの集団抗争時代劇が“死”に取り憑かれたドラマとするなら、本作は“生”に執着したドラマといえる。 守るべきものがない烏合の衆だからこそ、決死隊は常に内紛だらけ。罪人と藩士とのあいだで、罪人と罪人とのあいだで、そして藩士と藩士とのあいだで、常にイザコザが起きている。本作の主人公・政(山田孝之)にいたっては、何度も砦から脱走する始末。そんな寄せ集め集団が、戦いを通じて友情と連帯を深め、最後の最後ではやっぱり組織に裏切られる。そんな哀しきアウトローたちのドラマ…まさに、THE笠原節。 笠原和夫は一貫して、組織というものに対して疑いの眼差しを向けていた。それが討幕派・佐幕派であろうと、右翼・左翼であろうと、資本主義・共産主義であろうと、イデオロギーは関係ない。組織に殉じて死んでいくのではなく、組織に裏切られて死んでいく者たちに、彼は“孤高の魂”を見出していた。 「組織に属そうと思って忠実にやったんだけども、結果的にはそこから排除されていくというね。組織・運動体というのはそういうものだということをよく認識しなければならない。そのうえでどうするのかということはこれからの課題であって、でも当面、僕はそういうところに置かれてしまった人間の孤独だとか、孤独であるにもかかわらずプロメシウスのようにゼウスに向かって叫び続けるみたいなね。その孤高の魂が一番美しいんだというような、ある種の見識を持ったんですね」(*2) 東映集団抗争時代劇のフォーマットに、「アウトローたちの悲劇」という笠原和夫的なテーマが重なることで、『十一人の賊軍』は血湧き肉躍るドラマとして躍動している。