ブラジル日系社会『百年の水流』再改定版 (76) 外山脩
「斥候が、ヴァルガス軍の陣地をみつけ、本部のベランダの指揮所にバタバタと転がり込んできて、腰を抜かし、陣地の方向に片手を挙げて喘いでいた」 「望遠鏡で見ていると、牧草地に州軍のタンクがノコノコ出てきて、火をつけ、ノコノコ引き上げて行った」 といった具合であった。 農場は、この戦闘で家畜類に被害は出たが、人的なそれはなかった 以後度々、不発弾が発見された。その度に軍隊から処理班がきて、爆破して行った。建物の壁から小銃弾がみつかることもあった。それは一九八〇年代まで続いた。前記した見晴し台の梁の傷は、二十一世紀初め現在でも、ハッキリと残っている。 そういうこともあって、東山農場は、この内戦の貴重な戦跡とされている。開戦記念日の七月九日には毎年、陸軍の演習が、この農場で行われる。 学生など民間人も毎年数千人、訪れる。多い時には一万人を越えた。これは、遠い昔の荘園時代の光景が、ここに残っていることにもよろう。 二百年以上前に建てた本部、コロニア(この場合は、労務者の住宅地区の意味)が保存されており、使用されている。 奴隷小屋まであり、流石に、これは使われてはいないが、その奴隷の孫に当たる人が、二十世紀の終わり頃まで働いていたという。 東山が一九二七年、この農場を入手して造成したカフェー園が主事業として営まれている。 生きている史跡という感じがする。 付記すると、この内戦の折、サンパウロ州軍は、義勇兵を募集した。 各国系コロニア(この場合は移民社会の意味)から応募者があり、ドイツ人部隊やイタリア人部隊が編成され、一部は前線へ出た。 日本人部隊も作られた。少数だが、応募した者がいた。資料類によると、その中に、なんと岸本次男の名がある。それ以上のことは何も記されていない。 山田隆次という名もある。コンデ街に住む医者で、侠気があって住人から慕われていた。内戦中、近くのセー広場で騒乱が起きた時、流れ弾に当たって死んだ。 日本人部隊は前線に一度も出ず、一発の弾も撃たず終わったという。 吉岡省の昔話 内戦の翌一九三三年九月、サントスに入港した移民船から、一人の若者が降り立った。以後、イタケーラに住みつき、桃を栽培、ブラジル人農業技師たちを驚かす技術を発揮する。名前は吉岡省。省は「しょう」と読む。 この吉岡が晩年、一九八〇年代、筆者に語った昔話が、まことに興味深い。その頃つまり大正から昭和にかけての日本の情勢を知る上で参考になる。 吉岡は京都府下の奥丹後に生まれ、一九三〇(昭5)年、二十二、三歳の頃、地元の果樹園で桃の栽培を習っていた。 その吉岡に、どこか見所があったとみえ、府の社会教育主事が、東京で開催されるある講習会の受講生に推薦してくれた。講習先は日本青年協会という財団法人であった。 この協会は地方の中堅青年を、農業技術と思想……特に思想面で指導することを目的としていた。 上京した吉岡は協会を訪れた。奇妙なことに、それは麻布の陸軍歩兵三連隊の施設内にあった。事情は後で記す。 講習会では、関屋龍吉という品格ある中年の紳士から、こう言い渡された。 「これから十年後に、思想問題で日本には重大事態が起こる。諸君は、講習を終えて地方に帰ったら、その時のために、有為な青年を糾合して、対策を準備しなければならない」 関屋は、この協会の創立及び運営の中心人物であった。本職は文部省の社会局長だった。高級官僚である。 これより少し前、大正後半、日本の社会は左右両翼の思想が流行、いわゆる混迷状態にあった。その事は、先に触れたが、特に青年層にその傾向が強かった。 これが遠からぬ内に重大事態を引き起こす、と関屋は憂慮していた。 協会は一九二八(昭3)年に創立され、定期的に地方の農村から青年指導者の候補を集め、講習会を開催していた。 その講習会では、日本精神を根幹とする左右いずれにも偏らぬ中道主義を鼓吹した。重大事態に対処、防衛網を全国的に張ろうとしていたのである。農村から受講者を集めたのは、小作争議を念頭においていたことによろう。