元横綱・北の富士さん死去、82歳 中日スポーツでコラム『はやわざ御免』執筆、相撲愛あふれる歯に衣着せぬもの言い
第52代横綱北の富士の竹沢勝昭(たけざわ・かつあき)さん=北海道旭川市出身=が、12日午前に治療のため入院していた東京都内の病院で死去した。82歳だった。葬儀は故人の遺志により、20日までに近親者のみで執り行われた。12月18日に八角部屋でお別れの会が開かれる予定となっている。本場所中の中日スポーツコラム『はやわざ御免』は1978年の春場所初日にスタート。95年初場所で一時退いたが、16年初場所で復帰。ご意見番として歯に衣(きぬ)着せぬもの言いは相撲への愛があふれ、時には厳しく、時には自身の起こした過去の不祥事も笑い話にしてファンを楽しませてくれた。 ◆北の富士さん、「はやわざ御免」の生原稿【写真】 「『ふるさとの 土に帰りしこのからだ 汗と涙の 味がするらん』ってのはどう? お墓に彫ってもらおうかと思ってね」 2022年名古屋場所5日目の夜。北の富士さんからの不意の電話はいつものこと。慣れてはいたが、このときばかりは驚かされた。「ちょっと聞いてくれる?」と切り出すと、続けてこの短歌を詠み上げていった。誰が聞いても辞世の歌。私ごときが感想を語れるはずもない。 「まだ早いですよ。こんなにお元気なんですから」と伝えるのが精いっぱいだった。そういえば辞世の歌なのに、どこか楽しそうに詠み上げていた。 そんなところも北の富士さんらしい。人間味あふれる姿にとことん魅了されていった。1972年の夏場所は不眠症という前代未聞の診断書を出し休場した。「だってどこも悪くないんだもん。だから眠れないんですよって言ったら、医者がじゃあ不眠症ですねって」。眠れない理由はちゃんとあった。前年10月にライバルの玉の海が急死。「玉の海がいないとね…。何かが足りなくて。燃えるものがなくなっていたのかな」。まるで当時に舞い戻ったかのような、寂しそうな顔をして理由を打ち明けた。 98年1月に55歳の若さで相撲協会を退職。理事選でのゴタゴタが理由と言われているが、それは少し違う。「逆にゴタゴタしそうなのが嫌だったからやめたの。頭下げて回ったりするのが嫌いだから身を引いた」。そのときは北海道に帰って飲食店をするつもりだったという。粋でさっぱりした人だった。 北の富士さんが本場所中のコラムに復帰したのは16年初場所。ここでも粋な計らいで助けていただいた。 15年九州場所で北の湖理事長が急死。追悼文依頼のため北の富士さんのホテルを訪ねた。そしてもうひとつ。八角親方が理事長に就任すれば、八角親方のコラム「ぶちかまし御免」は終了。当時73歳と高齢の北の富士さんに無理を言って、21年ぶりのコラム復帰を願い出ようと思っていた。 「何とかお願いできませんか」。北の富士さんはそう切り出した私の目をジッと見て、不安を見透かしたかのようにニヤッと笑った。「書くことは大好きなんだよ。やるよ」と二つ返事で引き受けてくれた。 病院のベッドから原稿を届けてくれた23年春場所千秋楽がコラムの最後となったが、その年の正月は東京・神田のふぐ料理店に連れていってもらった。 カウンター席に並んで座ると「おれは65歳ぐらいで死ぬのかなって思ってたんだよ。強い横綱から早く逝っちゃうんだよなあ…」。82歳7カ月は歴代横綱として3番目の長寿だった。 ただ、長さだけでははかれないものがあることを、北の富士さんは教えてくれた。人間としての深さ、幅。それを少しの間だけでも、そばにいて学べたことに感謝をささげたい。 (岸本隆) ◆北の富士勝昭(きたのふじ・かつあき、本名・竹沢勝昭) 1942年3月28日生まれ、北海道旭川市出身。現役時代は185センチ、135キロ。優勝10回。57年初場所初土俵、70年初場所後に横綱昇進。74年名古屋場所中に引退。幕内通算592勝294敗62休(64場所)。親方として千代の富士、北勝海両横綱らを育てた。相撲協会理事退職後、NHK大相撲解説者。
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