なぜ?存在を消された21歳…写真から切り取られ、報道でも触れられず…陸軍初の特攻隊員の謎を追う
太平洋戦争、航空特攻始まり80年
太平洋戦争中の1944(昭和19)年10月に日本軍による航空機を使った組織的な体当たり攻撃「航空特攻」が始まって80年。長野県伊那市出身で筑波大名誉教授の伊藤純郎さん(67)=日本近代史、千葉県=が、陸軍初の特攻隊員だった県内出身の奥原英孝さんに関する情報を求めている。飛行場への爆撃で戦死したため、戦意高揚を狙って華々しく報道された他の特攻隊員と比べ、記録は少ない。奥原さんに関する報道は意図的に抹消された形跡もあるとし、戦時下の情報統制を考察する上で重要―としている。 【写真】旧日本陸軍で最初の特攻隊員の一人だった奥原英孝さん
特攻死者一覧に記載されている名前
奥原さんは23(大正12)年生まれ。伊藤さんによると、「特別攻撃隊全史」(特攻隊戦没者慰霊顕彰会)には特攻死者一覧に奥原さんの名前が記載されており、出身地はこれまで「長崎」とされていたが、近年の改訂で「長野」に訂正された。出身市町村は分かっていない。
飛行場で爆撃受け戦死
42年3月に仙台の民間航空機搭乗員の養成所を卒業後、茨城県内にあった鉾田陸軍飛行学校(44年6月、鉾田教導飛行師団に改編)で訓練を積んだ。その後、陸軍が最初に編成した爆撃機による特攻隊「万朶(ばんだ)隊」に配属され、44年11月にフィリピンの飛行場から出撃したが、機体の不調で引き返した。2回目も空中で仲間と合流できず、再び帰還。3度目の出撃直前に飛行場が米軍機の爆撃を受け、21歳で戦死した。
切り取られた写真
特攻で戦死した万朶隊の他の隊員は当時、信濃毎日新聞を含む各紙で大々的に報道されたが、奥原さんについては隊員であったことすら一切触れられなかった。内閣情報局の写真週刊誌「写真週報」(44年11月29日発行)に掲載された写真では、出撃前に別れの杯をかわす万朶隊の隊員5人のうち、右端にいたはずの奥原さんだけが切り取られていた。
存在すらしなかったような書きぶり
45年1月の女性雑誌「主婦之友」に掲載されたルポルタージュでは万朶隊員の訓練や出撃の様子が記されているが、やはり奥原さんに関する記述は全くない。伊藤さんは「初めから奥原さんが存在しなかったような書きぶりだ」と指摘。遺族でさえ特攻隊員だった事実を知らされなかった可能性があるとする。
報道統制の一端か
伊藤さんによると、国の言論統制下、新聞や雑誌などは特攻を賛美する報道に終始した。とりわけ地方紙は郷土出身兵を大々的に扱うことで戦意高揚を図り、陸軍の少年飛行兵や海軍の飛行予科練習生(予科練)の志願者増につながったとする。 伊藤さんは、特攻死した隊員たちの「物語」は次に続く特攻隊員の養成につながる一方、敵の爆撃で戦死した奥原さんは「そういった対象にはならなかった」と指摘。奥原さんについて研究を深め、国や軍に都合のいい情報のみが流布されるなどの「今にも通じる当時の報道統制の構造的な問題を考える糸口にしたい」と話している。