【教科書には載せられない話】《日本社会主義の父》の「不適切にもほどがある前半生」とは?
「非エリート」からの批判
堺の反論に対して、意外な方向から弾が飛んできた。『萬朝報』文芸欄の前任者、斎藤緑雨である。緑雨は明治法律学校中退であり、東大を拠点とする「文学閥」とは縁がない。その緑雨は、堺の批評を「日本の首府で発行して、十万の読者を持つと言はれる新聞紙の文学欄に、あんまり見かねた事」だと酷評した(『読売新聞』1899年9月10日)。 「枯川〔堺の筆名〕君、君の資格や歴史やを疑つた者があるとすれば、それは族籍に関した事ではなく、甚だ申上げにくいが知見に関した事だらう……今の文壇は幼稚だの浅薄だのと言つても、思想なり理論なりもう些(ちっ)と進歩して居るのだから、足を入れるなら入れるで、精々こまかに磨いて来て貰ひたいね」(同9月7日)。 堺自身は、東大の権威と無名文士との戦いという対立構図を押し出したのだが、第三者の緑雨は単純に堺の「知見」が足りないことが問題だ、と切り捨てたのである。ちょうど同じ頃、同僚の幸徳秋水からも「偏狭」さを注意されたという(「三十歳記」)。
『帝国文学』からのダメ出し
最も痛烈な批判は、堺がたどり着くことができなかった東京帝国大学から飛んできた。雑誌『帝国文学』である。『帝国文学』は、井上哲次郎ら東大文科関係者、そして学生だった高山樗牛、姉崎正治、上田敏らが1895年に創刊した雑誌で、晩翠も編集委員を務めた。 『帝国文学』第5巻第12号の「雑報」にはこんな論評がある。『萬朝報』で堺枯川と名乗る者が批評を書いている。堺の学歴と素養は知らないが、前にこの人の書いた小説を読んだことがある。凡庸で平板な「駄小説」だった。その批評文も非常識、ただの漫罵で含蓄も卓見もない。 要するに実作者としても批評家としても才能ゼロだと認定されてしまったのである。
二度目の挫折から社会主義へ
前任者である緑雨、『帝国文学』から完全否定された堺は、どうなっていっただろうか。その後も、『帝国文学』の記者には見る目がない、などと意気軒昂に反論してみたが、威勢のよさとは裏腹に、文学から徐々に足を洗っていくことになった。1900年には、文芸欄から「雑誌新聞論説の抜萃批評」に担当替えとなる。 堺はのち自伝でこの時期のことを「予は先(ま)づ生命なき文学に飽いて、漸(ようや)く政治に向つて進んで来た」と回想するが(『半生の墓』)、これは社会主義者となった後の視点にすぎないだろう。日記には、もっと率直な感想を記している。「我輩が若(も)し数年前に小説で多少成功して居たならば、どうであらうか、成功せなんだのが却つて仕合せであつたかも知れぬ、否、成功せなんだのは即ち不適当な事であつたからであらう」(「三十歳記」)。 要するに、自己の文学的能力の限界を痛感したことになる。自伝でいうように、東大以外の「別の道」から再び「登竜門」に入りかけたが、「その門は狭かつた」わけである。 その後堺は、『萬朝報』を母体として結成された社会改良団体、理想団の活動に参加し、社会問題への関心を強めていく。社会主義者として本格的なスタートを切るのは、日露戦争非戦論を唱えて内村鑑三、幸徳秋水らと新聞社を退社し、幸徳とともに平民社を創設した1903年頃のことである。 ※本記事は、尾原宏之『「反・東大」の思想史』(新潮選書)に基づいて作成したものです。
尾原宏之(おはら・ひろゆき) 1973年、山形県生まれ。甲南大学法学部教授。早稲田大学政治経済学部卒業。日本放送協会(NHK)勤務を経て、東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程単位取得退学。博士(政治学)。専門は日本政治思想史。首都大学東京都市教養学部法学系助教などを経て現職。著書に『大正大震災 忘却された断層』、『軍事と公論 明治元老院の政治思想』、『娯楽番組を創った男 丸山鐵雄と〈サラリーマン表現者〉の誕生』、『「反・東大」の思想史』など。 デイリー新潮編集部
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