【教科書には載せられない話】《日本社会主義の父》の「不適切にもほどがある前半生」とは?
ひたすら罵倒の文芸批評
帝大への道から落伍した堺は、先に大阪の文学界に足を踏み入れていた兄の手引きもあって、文士修業の道に入る。頭角をあらわすのは早かった。1889年には『福岡日日新聞』に短編小説「悪魔」を投稿、連載される。その後兄を頼って大阪に行き、小学校教員や新聞記者をしながら創作活動を続けた。1893年には、森鴎外が主宰する文芸誌『しがらみ草紙』に小説「隔塀物語」を発表した。 文筆に活路を見出した堺にとって、1899年、28歳で新聞『萬朝報』の記者に採用されたことは大きなチャンスとなった。『萬朝報』は、1900年頃まで東京で発行されていた新聞の中で最大部数を誇っており、幸徳秋水や内村鑑三といった気鋭の論客を続々と入社させていた。 当初堺は文芸欄「よろづ文学」での文芸批評や「上品なる三面記事」を担当する約束で、懸賞小説の選評委員長にも任命された。新聞を足場に文学方面で名声を獲得することも夢ではない。 だが、それも幻に終わった。またしても東大が堺を挫折させたのである。すでに1897年、京都帝国大学の創設にともなって帝国大学は東京帝国大学に改称していた。 堺の文芸批評の評判は芳しくなかった。既成作家から新人にいたるまで「平々凡々陳々腐々」「軽佻浮薄」とひたすら罵倒する。小説界の「新生面」を切り開け、などと叫ぶ割にあまり内容がない。
「学閥」への対抗意識
特に『荒城の月』の作詞者として知られる土井晩翠の処女詩集『天地有情』を、「平凡拙劣」「弛緩無力」などと酷評したこと(『萬朝報』1899年7月29日)は大きな非難を浴びた。「〔堺に〕批評の資格ありや」「〔堺に〕如何なる文学上の歴史〔実績〕あるやを知らず」「漫罵を見て嘔吐を催す」といった苦情が寄せられた(同9月5日)。
土井晩翠は1871年生まれで堺とほぼ同年齢だが、仙台の第二高等中学校を経て東京帝国大学文科大学英文学科を卒業し、『天地有情』刊行の翌年には第二高等学校教授に就任する。堺は、自分に寄せられた苦情の背後に「文学閥」の力を感じた。「無名にして肩書なき小家」である堺が、東大卒の文学士である晩翠を批判したことが咎められていると感じたのである。 堺は次のように反論する。学士ではない人間には文芸批評の資格がないというのか。新聞や雑誌から大家扱いされないと語る資格がないというのか(同9月5日)。東大卒の学士に対する対抗意識を、紙面で丸出しにしている。