残された校舎の壁が伝えるもの 大阪・北野高校の機銃掃射痕
残された校舎の壁が伝えるもの 大阪・北野高の機銃掃射痕 撮影・編集:柳曽文隆 THEPAGE大阪
大阪市淀川区にある大阪府立北野高等学校。1873年創立という歴史を持ち、府内でも屈指の進学校としても知られる同校では、夏休みも生徒らが授業やクラブ活動に励む姿がみられた。そんな活気あふれる学校だが、校内西側にある近代的な校舎に、あちらこちらで欠けて穴があいてるようにも見える、明らかに古い壁があった。関係者によると、これは1945年夏の空襲による機銃掃射痕だという。
弾痕の数は28、どれも直径30センチほど
「この壁は、戦前に建てられた旧校舎(旧制北野中学校本館)の西壁を残しているんです」と語るのは同校の恩知忠司校長。聞けば壁が欠けているのは空襲の際に打ち込まれた弾痕で、数は28もあるという。 弾痕の大きさは、だいたい直径30センチほどはあるだろうか。壁の高さは旧校舎の3階分まであるが、その3階部分を中心に2階、1階と広範囲で弾痕は存在しており、機銃掃射がいかに激しく恐ろしいものだったかを伝えている。 恩知校長によると、この弾痕は1945年7月の空襲の際によるものといわれており、平成の初めに同校校舎が建て替えられる際は、当時の同窓会や教職員らが「後世にこの惨禍を伝えていくために」と尽力し保存されるに至ったという。
「殉難乃碑」犠牲になった学生も
その壁の前には「殉難乃碑」という石碑が建てられていた。碑には1945年6月15日の空襲で、北野中2年生の男子生徒2人が、学校防衛中に焼夷弾の犠牲になったことが刻まれていた。 同校の資料などによると、1944年12月以降から1945年8月15日の終戦までに、大阪は50回を超える空襲を受けていた。この石碑に刻まれた2人を含めた生徒たちは、1945年6月15日午前8時ごろ、前日から学校防衛をしていたクラスと交代のため、玄関前で交代式を行っていた。そこへ空襲警報のサイレンが鳴り響き、校庭に掘られた防空壕などいに分散避難したという。 後に、焼夷弾などが落とされると同校校庭は火の海に。そして1発の焼夷弾が防空壕を覆っていた掩蓋(えんがい)を突き破り、1人の生徒がかぶっていた鉄カブトを直撃し即死。また、別の場所で逃げ遅れた生徒1人も、足に被弾し運ばれた救護所で亡くなったという。