出征兵士に贈られた著名俳優の寄せ書き 大阪で展示へ
出征兵士に贈られた著名俳優の寄せ書き 大阪で展示へ 撮影:岡村雅之
第2次世界大戦中に使用された生活用品などを展示する「『モノ』が語る戦争展」が13日から3日間、大阪市天王寺区の近鉄文化サロン(近鉄百貨店上本町店10階)で開催される。出征兵士に贈られた著名俳優たちの寄せ書き入り日の丸、都市を焼け野原にした驚がく兵器の構造を解き明かす模型焼夷弾、国民学校に通う「少国民」が手作りした竹やり──。戦時生活の実感できる貴重な機会だ。 [写真と動画]大阪唯一の「掩体壕」など 戦争遺跡を辿る案内人の思い
華やかな映画界に忍び寄る戦争の影
主催は自費出版文化の振興に取り組む団体「関西出版ルネサンス」(会長・福山琢磨新風書房代表)。福山さんは市井の人たちの戦争体験記録を全国公募した証言集「孫たちへの証言」を刊行してきた。編集作業を通じて戦争体験者や戦没者遺族との交流が深まる。戦争体験を伝える遺品などが大切に保管されている事実や、戦争をくぐり抜けたモノが持つインパクトの大きさに気づき、展覧会開催を実現した。 武運長久を祈り、出征兵士に贈られた知人友人たちの寄せ書き入り国旗。映画会社日活に勤務していた小川忠悳(ちゅうとく)さんに対する寄せ書きには、日活京都撮影所と明記のうえ、著名俳優たちの名前が列挙してある。片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、月形龍之介、志村喬。マキノ雅弘、稲垣浩など、監督の名も確認できる。日活多摩川撮影所や日活女子銃後会による寄せ書き入り日の丸も残されている。 小川さんは大学卒業後、日活入社。やがて1938年、陸軍中尉として出征。華やかな映画界にも戦争の影が忍び寄っていた。戦地から帰還した戦後は俳優養成機関の責任者を務めるなど映画界の黄金期を支え、遺族は「カツドウ屋人生を全うした」と振り返る。激動期を生きた映画人たちの人生が、寄せ書き入り日の丸に交差する。
焼夷弾に装着された布切れの意味は?
都市を焼け野原とし、多くの市民のいのちを奪った米軍による大空襲。逃げ惑う市民を容赦なく襲ったのは、火力の強い焼夷弾の嵐だった。福山さんは焼夷弾の構造を解き明かそうと、資料を参考に模型焼夷弾を製作した。米軍は日本とドイツで異なる構造の焼夷弾を使用していた。日本攻略仕様の焼夷弾の後部には、細長い4枚の布切れが尾ひれのように装着され、ストリーマーと呼ばれて重要な役割を演じていた。 「落下しながらストリーマーがひらひら舞うことで空気抵抗を受け、焼夷弾の落下速度が減速した。民家を直撃した焼夷弾が屋根や天井を突き破って室内へ落下するより、天井に留まって爆発した方が、周囲の家屋まで延焼しやすい。木造住宅が密集する日本の都市部に大打撃を与える戦略が、ストリーマーからも伝わってきます」(福山さん) どんな布地が使用されたか分からない。まちなかで見かけた厚手のコーヒー豆輸送用袋にヒントを得て、懇意のコーヒーメーカーから袋の布地を手に入れてストリーマー復元に辿り着いたという。一方、ドイツ空襲の焼夷弾には、鉄製の重りが装着されていた。 「ドイツ空襲の目標は工場。焼夷弾に重りを付けることで落下スピードを加速し、屋根を突き破って工場内まで到達させ、高熱で工作機械を破壊しようと試みた。私も同様の鉄材を入手し溶接も依頼して再現してみたところ、ズシリと重い。かなりの破壊力だっただろうと推察できました」(福山さん) 日本では落下速度を減速させ、ドイツでは加速する。米軍が空襲の狙いに応じて開発した焼夷弾を使い分けていた状況が、模型製作を通じて改めて浮かび上がってきた。