祖国へ帰る人、日本に残る人――ウクライナ避難民それぞれの思い。いまできる支援とは?
ウクライナに対するロシアの軍事侵攻が始まったのは、2022年2月のことです。 日本財団は翌3月末に「ウクライナ避難民支援」の実施を発表。来日する避難民に対して、渡航費・生活費・住環境整備費といった経済的支援を行うほか、教育や就職のサポートを通じた自立支援に取り組んできました。また、2024年3月より生活費支援対象者に対してウクライナ本国への帰国支援も開始しました。 しかし侵攻開始から3年目に入った今も、戦いが収束する兆しは見えていません。来日したウクライナ避難民も、「避難」から「定住」のステージに移行するか否か、難しい選択の最中にあります。 祖国であるウクライナに帰国する人たちがいる一方で、日本に残ることを決意した人たちも。それらの決断の背景には、どのような事情や思いがあるのでしょうか? お2人のウクライナ避難民にそれぞれの選択についてお話を伺いながら、これから私たちにどんなことができるのかを考えます。
当初は「半年で戦争は終わるだろう」と思っていた
最初にお話を聞かせてくれたのは、2023年の3月に60代の母親と12歳・10歳になる2人の息子を連れて避難してきたハンナ・ビルズルさんです。佐賀県に約1年滞在しましたが、2024年7月にウクライナに帰国することを決めました。 ――最初に、日本に避難を決めた経緯を教えてください。 ハンナさん(以下、敬称略):侵攻が始まった後の2022年6月、まずは家族と共にイギリスに避難し、避難民向けのプログラムを利用しました。 6カ月間スポンサーの家に受け入れてもらえる、という内容でしたが、当初はその期間中に戦争が終わるだろう、と考えていたのです。しかしプログラム終了が近づいても戦いが終わる気配はありません。 必死で次の受け入れ国を探すなか、たまたまSNSで日本財団の支援情報の投稿を見つけてダメ元で申し込みをしたんです。しかし返答が来る前に期限が来てしまい、2022年の年末年始はウクライナで過ごしました。 戦争が続いている中で過ごす2週間はとても恐ろしかった。そのとき日本から「受け入れ可能」と返信が来たので、ビザの申請のため何度かポーランドとウクライナを行き来した後、2023年の3月に来日することができました。 ――来日後は佐賀県で暮らすことになりましたが、当初はどんなことに不安や課題を抱えていましたか? ハンナ:日本のことはほとんど知らなかったですし、英語も通じないかもしれない、という面が不安でした。 しかし佐賀での保証人になってくれた「地球市民の会」の方が素晴らしい人物で、ウクライナにいるときから住む場所の写真をたくさん送ってくれたり、出迎えのためにわざわざ東京の空港に来てくれたりと、私たちを安心させようとしてくれているのが強く伝わってきて。 佐賀に着くと在日ウクライナ人たちが迎えに来てくれて、近所のお店の場所やバスの乗り方など、細かいところまで説明してくれました。到着の翌週に子どもが体調を崩してしまったときも、保証人さんがすぐに病院に同行してくれて。全面的なサポートを受けられたので、生活の課題にはほとんど直面していません。 ――お母さまは佐賀での暮らしに慣れることができましたか? ハンナ:私も驚いたのですが、最も佐賀の生活を満喫しているのは母だと思います。東京のような都会とは違い、田んぼや森がある静かな場所でゆったり生活できるのが嬉しいらしく、しょっちゅう散歩に出かけています。 英語も日本語も話せないのですが、お店で困っていると必ず誰かが手助けしてくれますし、バスの座席では暑くないようエアコンの向きを調整してくれるような人もいて、日本の人たちの優しさにとても感動していました。