沖縄戦を静かに語る”32軍壕” 実相を伝える戦争遺産
QAB 琉球朝日放送
復元が進む首里城の今を追いかける復興のキセキです。2019年の首里城火災をきっかけに、県内では改めて史跡が持つ「歴史的価値」を見つめる動きが高まっています。その議論の中心にあるのが、首里城地下から沖縄戦を指揮した「第32軍司令部壕」です。 記憶の風化が懸念される今、32軍壕が79年の時を経て私たちに語りかけます。ツルハシで掘った跡が残る壁や今も壕内に残る鉄の釘。 カメラマン「やっぱり酸素が薄い気がします。息が上がっているだけかな」 大人がしゃがみこみやっと入れる空間撮影をするカメラマンの呼吸が荒くなっています。 先月「第32軍壕司令部壕」に取材グループが入りました。4年前に撮影された「第5坑道」と呼ばれる区域の映像に加え今回「第2坑道」と「第3坑道」の内部が公開されました。
下郡みず恵さん「これがほぼ実物大に拡大した写真なんですけど、坑道が大体実物大の大きさにしています。 混乱の中で司令部壕を放棄して南部に撤退する様子がわかると思うんですけど、この狭い中に多い時には1000人ぐらいの人がいたとされているのでなんかもう乱れている様子がわかると思います。なかで過ごした人の証言をみると、ものすごい湿度で息苦しいし、隣の人と肌が触れ合うぐらい人が多いと」 首里城の地下およそ10~30mに、アリの巣上に広がる32軍壕。坑口と呼ばれる5つの入口と地下と地上を繋なぐ2つ立坑からなる32軍壕の総距離はおよそ1キロになります。79年前、この場所で日本軍は「南部撤退」を決めこの決定が多くの住民を巻き込んでいきました。 下郡みず恵さん「一般の人たちが知らない一部の人たちだけで考えて決定して遂行して、その結果が全部住民たちにいくんですね。それを私たち当時の人は何も知らなかったし、今の私たちもほとんど何もしらない状態」 撤退を決めた日本軍は機密を隠すため壕の一部を爆破。現在、岩塊の崩落や酸素の欠乏などの影響で通常は壕に入ることはできませんが「沖縄戦の実相」を伝える負の遺産として現在、保存公開に向けた調査が行われています。沖縄戦体験者が少なくなり、歴史を正しく伝え、後世につなぐための取り組みがされているなか世間では誤った情報が流れています。 本村杏珠「第32軍司令部壕。インターネットで調べてみました。すると掩蔽壕の写真が沢山でてきます」