3人の娘を育てながら70年代の医学界で孤軍奮闘。女性医療のパイオニア・天野惠子さんが「女性外来」を立ち上げるまで
日本の女性外来設立に貢献した医師・天野惠子さん。 そのきっかけは自身の壮絶な更年期障害の体験もあった。48歳を過ぎた頃から59歳まで、10年以上にわたって強烈な更年期障害に悩まされたという。 【画像】女性外来を作った伝説の医師の著書『81歳、現役女医の転ばぬ先の知恵』 現在81歳の天野さんは、究極の男性社会でもある医学界を生き抜き、3人の娘を育て上げた。今も埼玉県の病院で週2回、女性外来を担当するなど、精力的に活躍している。 著書『81歳、現役女医の転ばぬ先の知恵』(世界文化社)から、子どもを抱えながら孤軍奮闘した無給時代など、天野さんのこれまでのキャリアと自身の更年期体験を一部抜粋・再編集して紹介していく。
3人の子どもを抱え、東大病院で孤軍奮闘
私は28歳と30歳、37歳のとき、娘を出産しています。 女性が子育てをしながら働くことは、男性中心の日本社会ではとても難しく、とくに究極の男性社会ともいえる医学界においては、さらに容易ではありませんでした。 ここで、私の医師としてのキャリアについて触れておきます。 私は産後間もない31歳のとき、1974年に東京大学医学部附属病院第二内科(現在の循環器内科)に入局し、無給の医局員として働きはじめました。長女は2歳、次女は1歳でした。 夫は激務の脳外科医で、サポートを頼むことすら期待できない状況でした。 幼い娘たちを育てながら仕事をすることに周りの理解を得ることは、当時はまだ早すぎる時代でした。 入局当時、勤務時間は9時から16時を想定していましたが、実際には休日を含めて研究や業務に追われる日々。 無給でしたから、週に1日半、人工透析のクリニックのアルバイトで何とか収入を得ており、それを全額家政婦さんへの支払いにあてていました。 幸い、信頼できる家政婦さんに恵まれましたが、仕事のため、娘たちの保護者会や参観日、運動会に行くことはできませんでした。
“ガラスの天井”を感じたことも
第二内科では、研修医の指導やエコーなど検査の読影、研究などのほか、週1~2回の外来診療を担当し、患者さんの立場を第一に診療に携わっていました。 医局内では女性の医師がそもそも少なく、組織内で女性が不当に低い地位に据え置かれるガラスの天井を感じたことも多かったです。 41歳で東大第二内科助手に、そして43歳のときに東京大学保健センターの助手となり、学生の体調管理や健康診断に携わるようになりました。 何万人もの学生を相手に健康診断をするため、時間に追われる毎日でしたが、充実した日々で、直属の上司で、日本心臓病学会創設者の坂本二哉先生のもとで心音図・心エコー図の読み方をはじめ、さまざまなことを学びました。 そして、同センターの助教授候補として推されるチャンスに恵まれたのです。 しかし、「女性の助教授は他大学に教授として出しにくい」という、今では理解不能な男性中心主義からくる理由により、結局昇進は叶いませんでした。