【実録 竜戦士たちの10・8】(11)球団の「トレードない」に「信用できない」巨人・槙原寛己、『FA封印』とまではいかず…
◇長期連載【第1章 FA元年、激動のオフ】 1993年11月5日。春はプロ野球のキャンプ地で有名な宮崎市が、秋というのに球界関係者、報道陣で大変なにぎわいを見せていた。「セ・リーグ東西対抗」を翌日に控え、渦中の人物が次々と集結していたのだ。 まず落合博満が和歌山からJR、飛行機を乗り継ぎ、記者たちを引き連れ宮崎入り。これまでFAの話題には「まだ何も考えていない」「公式行事が終わってから」と口を閉ざしてきた落合だが、名古屋空港の待合ロビーでは珍しく番記者たちに胸中を明かした。 「ここ(中日)で、かなりの金ももらっている。自分にとっては残った方がいいんだ。だが、いろいろ考えるとな…。そのあれこれで決まらないんだ」。こう言うと、いまの心境を表すかのように、両手を横に広げ、てんびんが上下に動くポーズを作ってみせた。 そして宮崎市内のホテルで槙原寛己の到着を待っていたのは巨人球団代表の保科昭彦だった。槙原からの申し入れを受けたもので、約1時間にわたって来季の起用法、トレードの可能性について説明した。 「新聞はいろいろ書いているが、我々は(槙原を)トレードに出すつもりはない。チーム最多勝の投手を誰が出すものか。それは監督とも確認している」と保科。 だが槙原は「トレードはないと言われたが、信用はできない」と態度を保留。この日の両者の話し合いでは”FA封印”とまではいかなかった。 そんな巨人の動きに、最も敏感だったのが中日だ。「もしFAしてくれるのなら、巨人との交渉が終わり、他球団の交渉が解禁された時点で対応したい」。名古屋市内で報道陣から「宮崎会談」の様子を伝え聞いた球団社長の中山了は、慎重に言葉を選びながらも強い関心を示した。 槙原といえば中日の地元、愛知県半田市生まれで、大府高出身。「FAしてくれるのなら」との中山の言葉にも、祈るような思いが込められていた。 また、この日はFA選手の公示日初日。コミッショナー事務局から「フリーエージェント選手」として松永浩美、駒田徳広が公示されたが、その一方で中日にもゆかりのあるベテラン選手が戦力外通告を受けた。 82年の中日優勝時のV戦士で、西武黄金期を築いた外野手の平野謙だ。石毛宏典、工藤公康、伊東勤ら大物FA有資格者がそろう西武は前日、石毛、工藤に続き、伊東がFA不行使を表明したばかり。38歳の平野の年俸は1億700万円。選手会が勝ち取った「移籍の自由」のその裏で、高年俸のベテランたちには厳しいオフの訪れとなった。 =敬称略 (館林誠)
中日スポーツ