北海道生まれ。NYで成功し、カナダ初のミシュラン2つ星を獲った鮨職人・齋藤正樹とは?
トロントの「Sushi Masaki Saito」で鮨を握る齋藤正樹さんは、いまカナダで最も有名な日本人シェフだ。カナダに渡った理由、なぜ成功できたかを、現地にて聞いた。 ビジネス ストーリー
カナダのグルメシーンを牽引する日本人
2022年、カナダ初のミシュランガイドがトロントで始まった。初年は13軒、2023年は15軒のレストランが星を獲得。唯一、連続して最上位となる2つ星をとったのが、齋藤正樹さんがオーナーシェフを務める「Sushi Masaki Saito」だ。 星を獲った軒数から察せられるように、まだまだ発展途上のカナダのグルメシーン。その国で齋藤さんは2019年に「Sushi Masaki Saito」を開業し、昨年9月には姉妹店「MSSM」をスタートさせた。前者は自らが握るおまかせ680ドルの高級店、後者は弟子が握るおまかせ98ドルの敷居を下げた店である。 今後もカナダで事業を広め、「カナダの食を変える」と野望を抱く36歳。共通の知り合いによると、「かなり面白い人で鮨もやばい!」とのことだった。齋藤さんがどんな人でなぜカナダへ来たのか、「Sushi Masaki Saito」へ話を聞きに行った。
予定の時間に到着すると、齋藤さんは大きなルイ・ヴィトンの紙袋をもって現れた。私服の99%がルイ・ヴィトンで、年間500万円以上は費やすという。「僕、お金を稼ぐ能力はあるんですけど、けっこう服を買うんで誰よりもお金は持ってないです(笑)」 NYでルイ・ヴィトンのひ孫に偶然出会い、「有名な鮨シェフだよね」と商品を提供されたことをきっかけに買うようになったとか。この日、同ブランドのジャケットの下には『最後の晩餐』のパロディでキリストたちが鮨を食べている自作Tシャツを着ていた。 「なんでも聞いてください」と朗らかに言う齋藤さんは、最初の3分からインパクト抜群だった。
北海道生まれ、東京、香港、NY経由、トロント着
1987年、齋藤さんは北海道伊達市に生まれた。海が近い環境で育ち、祖父母は漁師。子供時代はサッカーやアイススケートで目立った成績を残す一方、好物として刺身や鮨をよく口にしていた。鮨職人を目指す最初のきっかけは、地元「千代鮨」の大将。家族で頻繁に訪れていた店だったが、大将が癌で逝去し、齋藤少年は大きなショックを覚えた。 「そのあとに色々な鮨を食べても、あそこの鮨には勝てないって子供ながらに分かったんです。あの人ってすげえんだなって。そういう美味しいものを作れる人になりたいって気持ちが湧いたんだと思います」 函館水産高校を卒業後は、築地の鮨店に就職。その後、札幌の「すし善」に移り、2015年、26歳の時に海外展開を広げようとしていた「鮨 銀座 おのでら」に引き抜かれて香港へ渡った。1年後にはLA、ハワイのオープニングに加わり、27歳で大将を務めたNY店は開業から半年でミシュラン1つ星を獲得。翌年には2つ星を獲り、猛スピードで人気店となる。発言力をもつと、当時NYで浸透していなかった“Edomae”とは何かを伝えていった。 「NYに行った1年目、“え、これ鮨じゃないじゃん”と衝撃を受けることが多くて。ミシュラン1つ星をとっていたお鮨屋さんもザ・フュージョンで、Masaが3つ星を獲っていたけどそこだけだった。世界NO.1の都市で鮨が全然台頭していないのが謎で、レベルの高い日本の鮨をなぜNYでビジネスモデルとしてやらないんだと感じました。 江戸前鮨も浸透していなくて、取材でも“Edomaeって何?”と聞かれる。日本で冷蔵庫のなかった時代に魚を長持ちさせるためにやっていた技法で、それは1石五鳥くらいあるという話から始めていました。ただ、僕の場合、ベースは江戸前で、古いもののいいところを残して新しいエッセンスを加える温故知新のスタイルに変えています。そうするとさらに美味しくて格好いいものになるから、それを発展させたいとも言っています」 メディアもフーディーも注目した鮨シェフは、話せばパワフルかつユニーク。NYからパリ講演に向かうアーティストがプライベートジェットでの鮨サービスを依頼するようになり、タイやオランダの王室関係者も齋藤さんの鮨を食べた。次は3つ星と予想されたが、「3つ星は自分の店で取りたい」と、齋藤さんは絶好調のままNYを去ってカナダへ渡った。